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人生×リキュール ベネディクチン

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 父は、兄に対しては見守る姿勢を崩さなかった。兄のことは主に母が可愛がり、細かく気を配っていたので父の出番はなかったとも言える。実家にいた時に、父と兄が話している光景を見た覚えがないのだ。母そっくりに育ってしまった兄を遠巻きに見るように自ら話しかけることはせず、兄はそんな父を小馬鹿にしていた。
 私立大学に進学した折に母の反対を押し切って都内に一人暮らしをすると言い出した兄は、実家暮らしに飽きていたから。お金を出せないからという理由で国立大しか進学を認められなかった私から見たら、兄はなんとも羨ましい身分だった。母は兄に甘かったのだ。自分の理想の男でも作り上げようとでもしていたのだろうか、頭のよろしくない兄の少しでも努力したらしいところを無理矢理見つけてなにかにつけて褒めちぎり、その代わりに私を貶した。私がどんなに成績が上位であっても。どんなに運動で表彰されても母は兄だけを褒め、私の欠点をあげつらった。それでよく曲がらずにマトモに育ったものだと、今更ながら学生の頃の可哀想な自分に同情を禁じ得ない。
 父が、いたからだろうか。
 父は言葉少なではあったが、よくやったなぁとか、すごいじゃないかと微笑みながら静かに褒めてくれたのだ。
 血の滲むような努力をしてやっと合格できた国立大は父の会社の近くだったので、毎朝一緒に出勤していた。相変わらず会話はなかったけれど「気をつけて頑張れ」と一言、方角の違う私を見送っていた。卒業して家を出る時にも父はそう言った。それから私は、外資系の旦那と出会って結婚し、海外に引っ越して堅牢な家庭を築けた。
 反対に一人暮らしを始めた兄は、大学にも行かずに毎日遊びほうけて、終いには大学を中退してギャンブラーになったと聞いた。今は不動産投資が当たって悪徳紛いのことをして儲けているだとかなんとか。なにかあっても私のところにだけは泣きついてこないように誓約書を書かせておいたほうが良さそうだ。
「では、出棺前のご焼香をお願いします」
 花すら手向けてもらえずに、母を納めた棺の蓋は閉まってしまった。
「当日出棺でいいだろ、通夜だ告別ってそんな金のかかるもんやる必要あるか? お袋に友達なんていないぜきっと。そんなのわかんだろ。親戚だってもう粗方絶えてんだ事後報告で充分だろ。棺も一番安いやつで」
 そう押し通したのは兄だ。一番お金を出し渋っていた分際で。喪主面するな。喪主はお父さんなのに。父がわからないのを良いことに勝手に話を進めて、最後に顔周りを飾る花すら省略したのだ。
「枯れちまう花より、ずっと残る貴金属だって言うぜ、お袋なら」金属は入れられませんのでと、葬儀担当者からにべもなく断られていたが、兄ならやりかねない。それにしても、あんなに可愛がって育てた息子なのに、最後は冷たいものなのねと母の不自然に皺のない顔に向かって心で語りかける。
 会社の受付嬢をしていたという母は、確かに華やかな美人ではあった。気が強くて極楽鳥みたいな色彩の派手な恰好が大好きで、兄が言うように貴金属に目がない金のかかる類いの美人だ。
 私は、幼心にケバい母が苦手だった。学校の行事や授業参観に、真っ赤な口紅を引いてまるでホステスのように気合いの入った恰好で来る母が恥ずかしくてしょうがなかった。
「ねぇ見てアレ、だれのおかあさん? カッコヤバー」
 クラスメートがヒソヒソ囁き合いながら薄ら笑っているのを見るのが怖かった。でも、自分の美的センスに確固たる自信を持っている母には何を言っても無駄なことはわかっている。男の先生には残らず色目を使うことに忙しい母がうっかり私に声をかけてこないことを祈りながら唇を噛んで耐えるしかなかった。
 その母の死顔が目の前にある。
 随分と地味に薄っぺらくなって乾いちゃったのねぇと、久しぶりに対峙した母をしみじみと観察した。
 私の横で、父がリンを前にして戸惑っている。
「たたいても、いいのかい?」
「いいのよ、お父さん」咄嗟にフォローすると、父は遠慮がちに小さくチーンと鳴らす。可愛い音だ。
 それから、慇懃に手を合わせるとほぅと安堵の溜め息をついた。
 父は母を送ることができて、ほんとうに嬉しいのだろう。伴侶に対しての自分の責務を果たし終えたのもあるだろうが、母が体調を崩して入院してから亡くなるまでの間にきっとなにか夫婦の絆を確かめるようなことがあったのだろう。と、願いたい。父が認知症になってしまった今となっては確かめようもないけれど。
 仮葬場に向かう道すがら、外の景色に一喜一憂する父の大声を患わしそうに聞いていた運転席の兄が口を開いた。
「ここらで一番やっすい施設でいいだろ」
 父のことを言っているのだとすぐわかった私は、でもお父さん普通に生活できてるよと反対した。
「施設に入れたら症状が進行するって言われてるし、慣れた家で暮らすのが一番いいらしいよ」
「徘徊してんだろ、親父」
 ぎょっとした。兄は父に感心がないと思ったから敢えて黙っていたのに、知ってたんだと不意を突かれた。
 数週間前、父は行方不明になったのだ。家にかけても出ないので不審に思って付き合いのある近所の人に様子を見に行ってもらうと玄関が開けっ放しになっていた。母の病院にも行っていないという。慌てて警察に捜索願いを出し、数日後にホームレスのたまり場で発見することができたが、警察が拉致事件と勘違いしてしまい大事になってしまった。そのために帰国を余儀なくされたのだ。夫と子どもたちはしばらくゆっくりして来なよと言って送り出してくれたが、父を放置した生活をこのまま続けることが難しくなっていることを危惧しているようだった。
 誰が兄に余計なことを垂れ込んだのか。兄に話したところで、返答はわかりきってる。今現在のざまだ。
「面倒臭いことに巻き込まれるのはご免なんだよ」
 兄は警察沙汰になることを言っているのだ。不法紛いのことをやっているから警察とは関わり合いたくはないのだろう。徘徊する父を捕えてお世話になるのは十中八九警察だ。今回もそうだった。
「施設なら見張ってもらえる。飯だって出る。至れり尽くせりじゃないか」なぁ親父と父に声をかける。
「ご親切にどうも」とわかっているのかいないのか、父はニッコリと笑い返す。
「お父さんの自由はどうなるの?」
「責任がなにかってことすら忘れちまった親父に、今更自由なんて必要かよ?」
「お父さんは、ちゃんと責任を果たしたじゃない!」思わず声を荒げてしまった。
「ケンカはダメだよぉーケンカはよくない。かなしくなるからねぇー」心配した父が私の手に触れてきた。相変わらず中途半端な体温をしているその手は、風船の空気が抜けてしまったようにシワシワしている。
「ホラな。こんなだ。俺たちが誰かってことも、もうわかってねえ」
「そんなこと・・」ないよと振り返った父の眼はガラス玉のように無機質に透き通っていて、そこからは感情の片鱗すら読み取ることができなかった。離れて暮らしている間に、父の記憶から私達は抹消されてしまったのだろうか。では、今の父に残っているのはなんなのだろう?
「おまえだって、向こうの生活があんだ。こっちに来て親父の世話なんて無理だろよ。いいだろ施設で」