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人生×リキュール ベネディクチン

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「あああぁぁーホントによくしてもらって、うれしいなぁー!ありがたい!ありがたいよぉー!」
 母の納棺でのことである。
 旅立ちの仕度が整った母を前にして、突如、車イスに乗った父が納棺師に向かってそんなことを叫び出した。
「ああぁありがとうございます!よくしてもらって、ホントに、よくしてもらって、ありがたいなぁー!」
 大声で言葉を発する父を、兄はまるで鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして凝視している。
 久しぶりに対面する兄が驚かないようと、親切心から父の認知症がだいぶ進んでいるのだと電話口に予め情報を与えてやったというのに、空返事ばかりして実際それがどういうことかなのか全く理解していなかったらしく、心底面食らっているようだった。昔っから感心を持つのは常に自分のことで、それ以外は視界に入れようともしない母譲りの自己中な性格はとっくに六十を過ぎているのにまだ健在なのかと呆れてしまう。咳払いをして、時を止めている兄の袖を引っ張ると、やっと我に返ったらしく今度は私の顔を睨みつけてくる始末。
「いい加減にしてよ。お母さんの納棺の席なんだから」
 小声で叱咤すると、不機嫌そうに顔を背けた。が、視界の隅に興奮して叫び続ける父の姿をしっかりと捉えているのは確認するまでもない。うちの家族はいつもそうだ。
 自分たちの世界や価値観から少しでも食み出るような現象は絶対に認めない。
 持論を並べて自分たちの正当性をみっちりと証明した上で、まるで正義の使者気取りで排除しにかかるのだ。
 特に絶対的な偏見でもって、家庭内を好き放題に支配していたのは母と兄。
 子どもの頃は、そんな不条理な押し付けで傷付くことがたくさんあった。例えば、友達とお揃いの文房具を買うことや、人気のアニメを見ること。自分が着たい服を選んだり、髪型を希望したり、好きな駄菓子を買うこと。そんなことが全てバカバカしいと否定され強制的に排除された。そんな時、父は・・
「こんなによくしてもらって、うれしいなぁうれしいなぁ!しあわせだぁしあわせだなぁーはぁーしあわせー!」
 両手でほっぺを包みながら幸せと連呼して涙を流す父は、いったいどこにそんな人格が眠っていたのかと思うくらいに純粋だ。幼児還り。認知症が進むと、その人の時間が遡り始め、意識が過去に戻るのだという。そうだとしても、父の変わりようは異常だ。
 父は元々、おとなしく寡黙な質だったため気の強い母の尻にいつも引かれていた。
 母の前でホイホイうれし泣きをしている父。幸せだなんて、一番父とは縁遠い言葉じゃないか。
 私が知っている父の姿は、あれが欲しいこれが欲しい給与が少ないと捲し立てる母から逃げて、ベランダでこっそりと煙草を吸っている姿だ。幸が薄そうな疲れ切った横顔は色が白っぽくて、なんだか今にも飛び降りてしまいそうな気がしたものだ。母に怒られ兄に苛められて泣いている私を見つけると、散歩に連れて出てくれた。と言っても、なにか話すわけでもなく無言で歩くだけの散歩だ。
 私の手を握る大きくて湿っぽい父の手の中途半端な温もりに、なんだか苛々した。
 お父さんはなんで、私を庇ってくれないの?
 どうして、なにも言わずに見ているだけしかしないの?
 元凶である母や兄を通り越して、傍観者にしか見えなかった父の全てが不満で仕方なかった。だから、いつも父に向かって無言で訴えていたのだと思う。
「うれしいなぁー!ココでやってもらいたいっていうのはねぇ、このヒトのきぼうだったんだなぁーだから、よかったねぇーホントに、よかったよぉー!ありがとうございますー」
 あの傲慢な母が、そんなことを父に話していたなんて俄には信じられないことだった。というか、子どもの私の目から見ても夫婦関係が破綻しているとしか思えなかったのに、老後になってから丸くなったということなのだろうか。そんなわけ・・だって母はつい七十辺りまで浮気に勤しんでいると、なにかの用事があって兄に不承不承連絡した時に耳障りな笑いを混ぜながら言っていた。かく言う自分も浮気の真っ最中だと思わせる触りを愚かにも口走っていた兄。彼らの理論では浮気は許されるものであるらしいと知って虫酸が走ったのを覚えている。その時、父はどうしているのだろうかと思わなかったわけではないが、どこか他人事だった。
 そんなふうに都合良く利用されて、夫扱いされていたのかすら怪しい父が、他界した伴侶を前に子どものように感情を剥き出しにして涙を流している。異様な光景だった。
「けっ。よくやるよ。お袋のATMだったくせにな」
 空気を読まない兄が毒突いた。それが聞こえていないわけではないだろうに、父の潤んだ目と態度は変わらない。私が、ちょっとやめてよと睨むと、兄はバッカバカしいわと負けずに睨み返してくる。なんてところに呼び出しやがったんだ、ふざけんなよとでも言いたげな顔つきだ。なにを言っているのか。母の葬儀だと言うのに。
 険悪な空気を察したのか、困った笑みを貼付けていた納棺師がお別れの時間でどうぞと退室していく。
「このヒトはしあわせだねぇ。こんなによくしてもらってねぇーよかったねぇー」
 冷たくなった母の傍ら、車イスの上から見下ろすような形の父は涙を流しながらよかったねぇよかったねぇと頻りに声をかけている。その優しい潤いに満ちた様子は、これまでの二人の表面上では感じることはできなかった愛情が存在していたのだと、やはり父は母を愛していたのだと充分納得させられるようなものだった。
 兄はバカらしくて付き合ってらんねぇわと肩を竦めて隣室のソファーにどっかと座ってテレビをつけた。
 父が鋭い一瞥を投げたのは、兄のつけたテレビの音が弾けるように聞こえたその瞬間だ。兄に向けられたそれまでと打って変わって氷のように冷たい視線は、私が知っているどの父のものとも違った。
「おとう さ・・」口から出た声は、掠れて言葉の体を成さなかった。
 父はすぐに母へと視線を戻したが、その眼差しは先程の潤いが一瞬で蒸発したかのように乾いたものだった。軽く唇を噛み締めている。父は母の死顔になにを見出しているのだろう?
 納棺師が入ってきた。いよいよ母を棺に納めるのだ。
 いつの間にか、父の表情は潤んだ目をしたあどけない子どものようなものになっていた。
 母を持ち上げる際に、協力を頼まれた兄が渋々戻ってきたがテレビはそのままだ。騒がしいCMの後に再放送の刑事ものドラマが流れ始め、ドラマの中で誰かと誰かが確執し揉め出した。その後、死体が発見されて大騒ぎになる音が鳴り響く中、母は棺に納まった。奇妙な光景だ。
「ああぁぁーさようならーいままで、ありがとうねぇーよかったねぇー」
 父が棺の側で母に語りかけ、次いで納棺師の女性に、ありがとうございます、よくしてもらってとペコペコ頭を下げている。そんな父に寄り添いながら、私はさっきの父の視線の意味を考え倦ねていた。