果てがない河
現代編3 『閑話休題』
その子はきょとんと目をまあるくして、二、三度瞬きを繰り返した。
袖で目を拭い、さらにまた瞬きを繰り返す。
そして隣に座る母親の方を見た。
母親は買い物に少し疲れていたのか、うつらうつらと小さく船を漕いでいる。
どうしようかと思わないわけではない。
でも、その子は、彼は意を決して母親の腕を軽く揺すった。
母親はゆっくりと目を開いて、少し寝ぼけ眼だったのも束の間、我が子が心配そうに自分の顔をのぞき込んでいるのを見ると、安心させるべく半ば本能的に軽い微笑みを口の端に浮かべた。
「どうしたの」
と母は子に問う。
子は母に言った。
「いなくなっちゃった」
――子は何かがおそろしげな様子で、そう答えた。
母親は少しいぶかしげに眉根を寄せる。
子供は電車の中で、差し向かう横長の椅子の一点を指さした。
母親は子が示す場所を眺めたが、そこには何の変哲もなかった。
何もない椅子がそこにあるだけ。
母親はもう一度、冷めかけた眠気が誘う柔らかな空気と、夕方の差し込む陽が与えるほろりとした暖かさに、ミルクのような柔和な笑みを浮かべた。
きっと子もそれで安心するはずだという確信を込めて。
さらに、頭の上に軽く掌を乗せて、さするように撫でた。
だから、子もそれで納得した。
何も納得出来ることがあったわけでもないし、言葉を必要なだけ交わしたわけでもない。
でも母子というのは、そんなふうに言葉ではなく、姿勢と態度で様々なものごとに折り合いを付けて、あるいは軽々と飛び越えることもあるのだ。
だから子は椅子に深く腰掛け直して、見なかったことにした。
そしてそれ以上何も言わなかった。
車内に差し込むパンタグラフの影が切れたころ、子の中で、
どこか疲れた風な学生服の女の子の姿は、
初めて見た子ということもあり、
音もなく、記憶の中からも――風のようにただ過ぎていった。
<続>