大団円の意味
「星というものは、太陽のように自ら光っている恒星と呼ばれる星以外に、その恒星の光を受けて、光っている、地球のような惑星や、月のような衛星がいるんだけど、実際には、反射しているから見えるわけだよね? でも、広い宇宙では、光を吸収してしまうと言われる星もあると考えられているんだ。つまりは、まったく光を利用しない星、もっといえば、そばにあるのに、その存在がまったく分からない星があるというんだ。人間だったら、気配というものがあるから、見えなくても何となく存在感のようなもので感じることはできるかも知れないが、その星はまったく気配すらない。そんな星が地球とぶつかるのではないかという学説を唱えた人がいたんだけど、もし、本当にそういう星が宇宙にあれば、実際に怖いよな」
ということであった。
あくまでも、その話はフィクションだということであったが、星の存在を否定できないだけに、センセーショナルな話として、今でも、遠山の頭の中に残っていた。
そして、遠山はその時、同時に、
「人間にもそんな人がいれば怖い」
ということだった。
「気配をまったく出さない人、見せていても、まったく意識しない人。それはまるで、道端に落ちている石ころのような存在で、見えているのに、誰も気にすることのない存在の人間。そんな人がいて、自分たちを殺そうとしているとすれば、透明人間よりも怖いかも知れない」
と思ったりしたのだった。
そんな、
「気配のない星や物体」
という存在が、人間にいたとしても、それは不思議ではないことだ。
昔から、
「誰もいないはずのところに人がいた」
であったり、
「まったく気配もないのに、扉を開けたら人がいて、次の瞬間に見ると、そこから姿が消えていた」
などという話をよく聞いたものだった。
ホラーと言ってもいい話だが、これが、ホラーではなく、
「気配を打ち消すことができる人間」
という存在を認めることの方が、よほど、ホラーのような伝説を考えるよりも、まともに思えるのではないかと思うと、気配を消している人の存在を、いつの間にか認めている自分に気づくのだった。
待合室で、そんなことを考えていると、
「まさかとは思っているけど、あの子がここで働いているとしても、別に不思議はない気がする」
と思った。
自分が気配を消すことができるという素質のようなものを持っていることに気づいているのであれば、
「普段は大学生だけど、裏の顔はソープ嬢」
という女の子がいたとしても、不思議でもないだろう。
幽霊騒ぎを信じるよりも、よほどあり得ることのように思えたからだ。
むしろ、幽霊騒ぎだって、このような能力を持っている人が、幽霊騒ぎの中にいたとしてもおかしくはないと思えるからだった。
遠山はその写真を見ていると、自分の中で、その子の存在が大きくなってきていることに気づいていた。
「できるだけ早いうちに。この子を指名しよう」
と思ったのだ。
もちろん、他にも可愛い子がたくさんいる。そして、気になる女の子も、いないわけではないので、先輩が出てくるまでの間、少しでもたくさんチャックしようと思うのだった。
先輩はなかなか出てこない。ただ、実際には時間がそんなに遅く進んでいるわけではなかった。
「本来なら、もっと時間が遅くなってほしいと思っているような状況なのに、そうではないということは、どうも、自分の意識がマヒしているからではないのか?」
と感じた。
待合室という雰囲気が異様なのか、それとも、大学で意識したことのある女の子を思い出すことで、頭から離れない女の子の存在を感じたからなのか、どっちにしても、次に考えることは、また変わっていた。
「今度、この店でこの子と対面するまでに、大学で、彼女と出会うことがあるのだろうか?」
と考えたことであった。
なぜ、そんなことを感じるのかは分かる気はしたが、大学でその子と会ったとしても、その時に何かを感じるのだろうか?
もし、何かを感じるとすれば、この店の女の子としての、写真に写っている子との対面の時に何かを感じることになるだろう。
大学での女の子は、あくまでも気配を消そうとしているので、こちらが意識したとしても、彼女はその、
「意識という光」
を吸収してしまって、自分から相手に何か反応することはないだろう。
「声をかけたとしても、相手に伝わるかどうか分からない」
という感覚さえ芽生えるほどで、まさかとは思うが、声をかけた瞬間に、消えてしまったりなどしないだろうか?
そんな発想は、却って、ホラーからせっかく離れた自分を、またホラーの世界に引き戻させるように思えた。
「少なくとも、この店の女の子に会うまでは、そんなホラーな感覚になってしまってはいけないんだ」
と思うのだった。
そう思ってしまうと、二人とも消えてしまうような気がするのだが、それは、またしても、ホラーに結びつくことであって、どっちにしても、ホラーになってしまうことに、違和感を覚えてしまうのだった。
大団円
作者は、最近の小説で、最後の章を、
「大団円」
という言葉でまとめることが多い。
正直、大団円という言葉を使うことが楽だからだ。しかし、この言葉は、確かに最後の場面という意味で使われる言葉であるだけではなく、本当の忌として、
「すべてがめでたく収まる結末についていう」
というのが正解なのであるが、今まで使ってきた小説の中で、果たして本当の大団円を迎えたものがいくつあったであろうか?
特にオカルトとしてのジャンルの中で、本人としては、
「奇妙な味」
というジャンルだと思っているような内容で、そもそも、
「すべてがめでたく」
などという話は、そもそもの小説の趣旨において、辻褄はあっていないといってもいいのではないだろうか。
そういう意味では、本当の大団円ではなかったと思われるものも少なくはなかったと思うがこの小説においてはどうだろう?
正直、今この時点において、正確な着地点を見いだせておらず、漠然としたラストしか見えていない作者にとって、これが本当の大団円かどうか分からない。
だが、それは作者の思いであって、主人公にとって、そして、登場人物にとって、大団円と言えるかどうかは、終わってみないと分からない。
特に今までの作者の小説は、大団円が主人公の側にあるのか、それとも、登場人物にあるのか、そのあたりも曖昧だった。
小説によっては、最後には主人公だけの話になっていたり、主人公そっちのけで、いつのまにか、最後には誰が主人公であったのかすら分からなかった話もあるだろう。
何しろ作者が、最後まで、書きながらイメージを膨らませているのだから、それもしょうがないことであり、それだけ、
「行き当たりばったりの小説」
を書いてきた証拠なのだろう。
だが、作者としては、
「そのわりには、思っているよりもうまくまとまった。いや、いささか強引ではあるが、何とかまとめた」
と思っている作品も多いと思うので、それはきっと、小説を書けるようになった時の、