人生×リキュール クレームド巨峰紫
老人がはっと娘の手を握り返して顔を凝視した。あぁまただと思った。この老人も他の人間と同じように、娘の顔を見て不吉なものを見たような不愉快極まりない顔をするのだろう。とっさに二人の間に入ろうと踏み出した。
「お嬢ちゃん、辛いことがたくさんあったんだねえ。自分を削って必死に凌いできたんだねえ」不憫だなあーと老人が子どものように泣き出した。娘は老人に手を握られたまま、どうしていいかわからずオロオロと困っている。
「大丈夫。あたし大丈夫だから」
必死に訴える娘の言葉に、老人の泣き声がおいおいと被さっていく。そうしてしばらくして、やっと泣き終わった老人は車イスの後ろから紫色の瓶を一本取り出すと、娘の手にそっと握らせた。
「これはお嬢ちゃんに打つかっちまったお詫びだ。なにも言わずに受け取っておくれ」
でも、と心細気に母親を振り返る娘と目を合わせて思案する。
「人生をやり直す一本を!」
唐突にそう叫んだ老人に二人が視線を戻すと、さっきまでいたはずの老人の姿が掻き消えている。
「あれ? え、うそ・・」周囲をいくら見渡しても、老人らしき人物は見当たらない。狐につままれたような気分になった二人は、紫と書かれた瓶を同時に見下ろした。不思議なこともあるものだ。
「・・帰ろっか」
どちらからともなく、帰路についた。
紅葉し始めたポプラ並木を歩いている時、娘は少し先を歩いている母親の手に目がいった。爪が短く切られた母の手は、いつも温かくて皺くちゃで乾いている。子どもの頃よくつないだ手だ。片手は、父のゴツゴツした大きな手とつないでいた。もう父はいない。優しかった父とは二度と会えない。数日前の父の誕生日の夜が浮かんで、後悔に締め付けられる。あのブーケ、ちゃんと顔見て渡せたらどんなに・・翌朝、ありがとうと書かれたメモが置いてあったことを思い出して泣きたくなった。あれが最後の父とのやりとりだったのだ。
いつも陰ながら応援してくれる父が大好きだった。それなのに、自分は・・最後まで親不孝だった。足が止まる。娘が立ち止まったことに気付かない母が、少しずつ遠ざかっていく。引き止めようとしても声が出なかった。
待って・・
待って・・おかあさん!
後ろを歩いているはずの娘の気配が途切れたことに少しして気付いた母は、急いで振り返った。娘は一メートル以上先で立ち竦んでいる。顔面蒼白で項垂れる娘の姿が今にも崩れてしまいそうに見えて、慌てて娘の元に走り寄った。娘は苦痛に顔を歪めている。やはりどこか怪我していたのだと思い、タクシーを拾おうと提案した。
「・・お かぁ さ ん」噛み締めた唇を僅かに開き、絞り出すように言葉を発する娘。
「大丈夫よ。すぐに、」慣れないスマートフォンを操作しようとする母の手を娘が握ってきた。思いのほか力強いその手はぶるぶる震えている。片方の手で娘の手を包んで擦りながら、思い返せば、夫が亡くなってからずっと娘は怯えるように震えていることに気付いた。この子も不安で仕方ないんだわ。
『自分を削って必死に凌いできたんだねえ』老人が言っていた言葉を思い出す。娘は、夫に似てあまり多くを語らない子だ。だから、油断していた。そして、気にしなかったのだ。娘がこんな状態になってもなお。愚鈍な母親。親失格だ。震えながらも必死に握ってくる娘の手は、赤ん坊だった頃となにも変わっていないのに。己の未熟さに嫌気を催しながら苦々しく唇を噛んだ彼女は、娘の手を引いてゆっくりと歩き出した。
庭に植わっている梅の蕾が、白く膨らみ始めたのが夜目にもわかる季節になった。
娘の通院は地道に続いていた。
けれど、目を見張るような劇的変化は見られない。
食べることに関しては、一進一退の状態。けれど、以前よりも母娘の会話が増えたことが喜ばしかった。僅かだが夫の遺族年金が入ってくるので、贅沢せずに暮らせば娘にゆっくり付き合うことができそうだ。焦らせるような言動は一番いけないのだと主治医からもキツく注意されている。娘はそれでなくても神経質で生真面目なので、その性格が裏目に出ているのだとも。他人を介して娘について学んで認識し直している。情けないことだと思う。
誰より一番近くにいた親の立場であるくせに。娘の苦しみ一つ見えていなかったのだ。
子どもの意思を尊重するのと、なにも聞かずに放置するのとは違う。
子どもが人知れず悩んでいたり苦しんでいるのを見抜けてこその親の存在なのではないか。子どもは様々な問題行動を起こして、自らの身を削ってなんとか親にわかってもらおうとする。そもそも、普通に生活できなくなっている時点で気付かなければいけなかったのに、完璧に親失格だ。娘が患う摂食障害や鬱病の理解を深めるその都度、自責の念が立ち上がってくる。だけど、ダメだ。それを娘に気付かれてはいけない。娘は更に不安になって自分を虐げるだろう。弱気になると途端に夫に縋りたくなってくる。もう夫はいないし、それじゃいけないのだ。大丈夫。あたしはあの子の母親。大丈夫。結果を急いではいけない。
夫が亡くなって半年後、娘が四十歳の誕生日を迎えた。
卓上コンロで湯気を立てる水炊きを二人でつつく。水炊きは娘が手伝ってくれた共作。ゆっくりではあるが、少しずつ確実に口へと食物を運ぶ娘。その様子を見て安堵の息を密かについた。母親が常に一緒にいるからなのか、娘の無駄食いや嘔吐が劇的に減っていたのだ。
『いい時と悪い時を繰り返す、それがこの病気の特徴です。だから長期戦なんだ。気を抜かないでください』
主治医の警告は心得ているつもりだ。だが、目の前の現状が嬉しいのは事実だった。つい浮かれて口を滑らす。
「実は、ケーキもあるのよ。ゼリーだけど」
「食べられるかな・・」浮かない顔を向ける娘。
「無理しないで。食べられたらで大丈夫だから」
「そっか・・でも、」がんばると蚊の鳴くような声で締めくくって俯いてしまった。ふと、自分はいつもこうやってこの子に我慢を強いてきたのかもしれないと思い当たった。選択肢があるように見せておいて、実は相手の親切心や配慮を軽んじることができない優しさや律儀さを利用している。
「なんだか、お母さんもお腹一杯になってきちゃったわ。ごめん、ゼリーは明日でもいい?」
母の提案に娘はほっとしてこくこく頷いた。
「代わりに、アレ飲んでみたい。いいかな?」珍しく提案する娘が指した先には、夫の仏壇に供えた紫色の瓶。
「ブドウのリキュールなんだって。ソーダとかで割るとおいしいって」
「じゃあ、飲んでみましょうか」
確かお父さんの晩酌用の買い置きにーとシンク棚を探すと未開封の炭酸水を見つけた。娘が仏壇から持ってきたリキュールの蓋相手に苦戦している。蓋を捻るために必要な余力がないのだ。ギブアップした娘から瓶を受け取って蓋を開けると赤紫色な液体をグラスに注ぐ。巨峰の芳醇な香りが広がる。巨峰を潰しているのを目の当たりにしているような新鮮な芳香だ。
「うわぁいい匂い・・」深呼吸を繰り返す娘を微笑ましく見遣りながら、グラスをソーダで満たしていく。
「おいしそう」
作品名:人生×リキュール クレームド巨峰紫 作家名:ぬゑ