小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

人生×リキュール クレームド巨峰紫

INDEX|2ページ/4ページ|

次のページ前のページ
 

 ほっと胸を撫で下ろして野菜庫を閉めた途端、これじゃあまるで娘に怯えているようじゃないのと自身に対しての憤りが込み上げてきて激しく首を振った。娘だって苦しんでいるのだ。
 大学三年生になったあたりから、娘は急に体型を気にし出すようになった。
 マラソンで鍛え上げられた体型を維持していた娘は、太っているわけでも筋肉質なわけでもなく、むしろ標準よりスリムに見えるくらいだったのだが、それでも頻りに太っているとブツブツ言いながら脹脛を揉むのだ。
 娘はジャンクフードとお菓子断ちをすると宣言し、次の週辺りに飲み物の制限が始まった。ヘルシーと呼ばれる食生活を実践し、毎日の生活に半身浴や運動を取り入れた。マラソンを辞めて、運動不足ではないかと危惧していたので、いい機会だとその時は応援していたが、生来が生真面目な娘は減量を追及し、どんどんのめり込んでしまったのだ。
 雪平の火を弱め、鮭の火を止めながら深い溜め息をつく。
 あの時、止めていればよかったのかしら・・
 もしも、なんて一度でも脳裏を過ってしまったら、後悔ばかりが数珠繋ぎに出てきてしまう。だから、彼女は無視するように努めている。いくら後悔したところで現状は変わらないからだ。
 小松菜を洗って切ってから雪平に投入する。小松菜に火が通ったところを見計らって味噌を溶く。あとは、残り物の筑前煮があるから、夫が帰宅したタイミングで温めて出せばいいだろう。
 大学生時代に、娘の定期入れから、男の子の写真が覗いているのを見かけたことがある。なかなか整った顔立ちの男の子だった。娘の思い人なのかしらと、見なかった振りをしてそっと定期入れに戻した。そういえば、あの時以来、あの男の子の写真を見た記憶がないわねと、洗っていたまな板から時計へと視線を移す。
 いつの間にやら八時を回っている。
 夫の帰宅時間はいつも決まって七時だ。珍しく残業でもしてるのかしらと水道の蛇口を捻って、手を拭きながらスマートフォンに手を伸ばすと、家の電話がけたたましく鳴り響いた。
「はい、もしもし」
 早口なのに妙な慇懃さを感じさせる相手は警察だと名乗った。
「免許証を確認させてもらいました。こちらの名前と風貌、お宅の旦那さんで間違いないですか?」
「・・ええ、はい。うちの主人が、なにか?」
「駅の構内で突然倒れられたそうです。病院に運ばれましたが、お亡くなりになられました。医師の診断では突発性虚血心不全だということです。遺体確認をしていただきたいのでー」急激に相手の声が遠くなっていった。
 夫が亡くなった? 嘘よ。そんなの嘘に決まってるわ。そんなわけない。うそうそうそうそうそ・・
 階段が軋む音がした。見上げると暗闇に紛れて骸骨のように変わり果てた娘が、こちらの様子を窺っている。その姿が一瞬死神に見えた。見えてしまった。幸せな家族を引き裂く死神に。視界が霞んでいく。電話の向こうの声が戻ってきた。今度はやけに大きく響いてくる。
「もしもし? もしもし? 奥さん? 聞いてますか?」

 夫の葬儀は、お茶漬けをかきこみようにサラサラと進む。
 告別式だけの簡素な形にしたこともあるが、なにより眼前を自動的に流れていく映像つきの時間に、彼女の意識が追いついていけてなかった。まだどこかで、これはなにかの間違いだと思っている。あそこの棺の中で冷たくなって横たわっているのは夫によく似ているけれど、きっと全ては夢かなにかで、目を覚ましたらいつものように夫は生きて動いているのではないか。きっとそうだ。そうに違いない。そうじゃなきゃダメよ。自分自身に言い聞かすように何度も何度も同じ言葉を脳内で回転させることに無意識の全てをつぎ込んでいた。
 夫の入った棺を霊柩車へ移乗させるために式場の外に出ると、うろこ雲が広がる青空の下を赤とんぼが飛び交っているのが、彼女の霞んだ目に鮮やかな手触りを持って飛び込んできた。
 美しい世界が、彼女の強ばった両頬を温かい水で洗い緩めていく。
 そんな神々しくも感じられる秋晴れの元に骨と皮だけの哀れな姿を曝してしまった娘は、喪服の肩を小さく震わせながら、喪主である母親の後ろに佇んで静かに涙を流している。伸びっ放しになった髪を後ろでまとめていて前髪もないので余計に顔の骨張った輪郭が露になっていた。そんな娘に、参列した夫の会社の仲間や友人、親戚が怪訝な一瞥を容赦なく投げつけてきた。彼女は怯える娘を庇ってやることすらできない。
 事件は火葬場からの帰り道で起きた。
 骨壺を抱いた娘が、脱水と貧血を起こして車道に倒れ込み、乗用車に轢かれそうになったのだ。
 間一髪で乗用車が止まったからよかったものの、そうでなければ娘は夫の後を追うことになっただろう。意識が朦朧となっていても骨壺だけはしっかりと胸に抱えて震えながら踞っている娘に駆け寄った時、平手打ちを食らったように彼女の意識が覚醒した。
 あたしがこの子を守ってあげなければ!
 数日後、届いた仏壇の設置もそこそこに、嫌がる娘を神経内科がある病院へ引っ張って行った。
 思いのほか、混み合った明るい雰囲気の待合室に拍子抜けしながらも、待つこと二時間。一通りのカウンセリングを受けた後、今後の通院計画や普段の生活で気をつけることを説明され、必要に応じて服用できるように安定剤が処方された。
 娘は始終体を震わせており、医師の問いに答える久しぶりに聞く娘の声は隙間風のように掠れていた。厚めの生地でできたズボンの上からでもわかる骨そのものの太さしかない足の上に乗った不安げに握られた骨張った拳からは、かつてのような生命力は消え失せ、代わりに異質な匂いが漂っている。冷たく硬直した夫の体から発散されていた匂いと同じ種類だとわかって、背中を冷や汗が伝う。どうして今まで気付かなかったのかしら。
 夫が冷たくなった体だけを残して、永遠に動かなくなってしまった恐怖がフラッシュバックしてきて動悸を誘発する。辛そうに顔を歪めて俯き続ける娘。どうにかしなきゃ。この子まで失うなんて、耐えられないわ。
 会計を済ませて病院のエントランスから外に出る。
「お昼はどうしようか」歩きながらつい口からこぼれた。真っ白い蝋人形のような顔に皺を寄せて母親の後をついてきていた娘が、外の眩しさに目を細めた瞬間、いきなり横倒しになった。
「ああ!すまない!すまない!大丈夫かあー!怪我はないか!悪かった!ごめんなさい!」
 叫び声に振り返ると、手をついて横向きに倒れた娘に向かって車イスに乗った老人が取り乱した様子で謝っていた。娘に駆け寄って声をかけると、大丈夫と呟いて服の埃を払い出したので対してことないとわかって安心した。老人は、人を轢いちまったと連呼しながらパニックになっている。
「大丈夫ですよ。怪我もないですし」と声をかけるが、老人はすまないすまないと繰り返すばかり。
「空が眩しかったから、つい目を瞑っちまったんだ!こんなことになるとは思わなかったんだ!」あああぁぁーと絶望して両手で顔を覆う老人。皺と滲みだらけのその手を白く細い手が包んだ。娘の手だった。
「落ち着いて。ホラ、あたし大丈夫」