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人生×リキュール クレームド巨峰紫

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今日の夕飯、どうしようかしら?
 西日が差込む居間で、取り込んだばかりの洗濯物に手をつけながら考え始めた。
 とりあえず、アイロン掛けしなければいけないワイシャツやハンカチをまず除ける。
 確か、このあいだ買った特売の豚ロースの薄切り肉があったはずだわと、手にした夫の靴下をくるっと畳む。続いて、自分のと娘の淡い色の靴下をくるくるっと畳む。
 今夜は豚しゃぶなんかどうかしら。バスタオル、フェイスタオル、手ふきタオルの順に畳んでいく。
 ロースなら脂身も少ないし、野菜もとれるわ。夫の下着に取りかかる。愛用しているグンゼのブリーフに小さな穴を発見した。繕わないといけない。これもアイロン用衣料同様に脇に除ける。
 この間、ワイドショーを見ていたら最近よくテレビで見かける若い女優が、豚しゃぶをレタスで巻いて食べていると公言していたから、レタスも用意してみようと思いついて、自分と娘の下着を丁寧に畳む。
 ヘルシーだから、あの子もきっと喜んで食べてくれるわ。ブラウスに伸ばした手をふと止めた。
 昨夜は、夫の誕生日だったので、うっかり夫の好物のトンカツを出してしまったのだ。
 降りてきた娘は、鼻に皺を寄せて穢らわしいものでも見るような目でトンカツを睨むと、脱兎の如く階段を駆け上がっていった。娘なりに父親の古稀を祝おうとしたらしく、階段に小さなブーケが落ちていた。
 溜め息をついてブラウスを掴むと、手早く畳んで娘のトレーナーを引き摺り出す。
 主役である夫の希望を優先してしまったが、やはり無難に鍋などにすればよかった。トレーナーを大切に畳む指先に後悔が滲む。昨夜、久しぶりに真正面から見た娘の顔は、また痩けていた。
 台所の蛍光灯の下、肉が刮げ落ちた頬と落ち窪んだ目が影を纏い、骸骨を思わせた。明らかに痩せ過ぎだ。
 それは夫も同様に感じたことだろうが、その後二人きりで寂しくトンカツをつついている時には触れてこなかった。娘のダイエットは今に始まったことではないが、最近尋常ではない痩せ方をしているのが気になってしょうがない。お菓子や炭酸飲料だけを苛々しながら排除していた学生時代が可愛らしく思える。今の娘は、カロリー以前に食物と分類できるものは、水やお茶以外ほぼ手をつけようとはしない。
 最初の頃は、我慢しているのが表情やお腹の音でわかった。が、最近では、空腹自体を感じていないようなのだ。拒食症という言葉が浮かぶ。
 数ヶ月前に突然、苦労して就職した念願の勤め先を退職してきたことと関係があるのだろう。
 突然の事後報告だったため、なんと答えていいのか狼狽える自分に代わって夫が「おまえが決めたのなら、私たちに異存はないよ」と言った。謝るでも泣くでもなく、然りとて清々した顔をするでもなく、眉間に僅かな皺を寄せて空虚な瞳で両親を見返してきた娘。その後からだ。
 思うようにいかない就活と不採用の通知にノイローゼ気味になった娘は、ストレスが高じて過食に走り出した。
 それまで避けていたジャンクフードやお菓子、飲料水などを積極的に摂取し、けれど太る恐怖を捨て切れず嘔吐する。その繰り返しで、終いにはそれを食事全般でやるようになってしまった。
 また一つ溜め息が漏れる。畳み終わった娘の服や下着をひとまとめにしてソファーの上に乗せた。
 いつのまにか西日は陰り、居間を暮色が染めている。
 強ばる膝を庇ってよっこらしょと立ち上がると、台所に行って冷蔵庫を開けた。
 買ってきたばかりの食パンが一袋、消えていた。それからソーセージとスライスチーズと牛乳。
 娘が大量に食べて吐くようになってからは、なるべく手軽に食べられるインスタント食品を始めとしたジャンクフードやお菓子、菓子パンなどは極力置かないようにしていたのだが、とうとう、食パンにまで手を出し始めたらしい。冷蔵庫内から隣にあるトースターに視線を滑らすが、使った形跡は見当たらなかったので、なにもせずに冷たいままで食べたのだろう。
 今朝まではあったから、今日の、昼頃、恐らくお隣に回覧板を回しに出た隙を見て食べたようだ。お隣の老人の長話にダラダラと付き合ってしまったことが悔やまれた。この分じゃ今夜は降りてこないだろうと肩を落とす。豚しゃぶは変更を余儀なくされた。さすがの娘も生肉には手を出さないので、置いておいても大丈夫だろう。
 ソーセージは、生のまま食べたのかしら? 冷凍庫から鮭を二匹取り出しながら、ふと心配になった。小さい頃からお腹が痛くなりやすかった娘は、夏にアイスクリームを食べただけで下痢を起こすくらいデリケートな体質だ。それなのに、いくら加工されているとはいえ、火を通していないソーセージだなんて。お腹にある時間が短いし消化される前に出ちゃうから大丈夫なのかしら。そんな憶測をしながら夕飯の仕度を始めた。
 娘は遅くできた子だった。
 妊娠を諦め始めた四十後半になって初めて授かった念願の女の子。元気な泣き声を上げて産まれてきて、小さな手で大人の指を握りながらにぱっと笑う愛らしい赤ん坊だった娘は、低体重だったのが嘘のようにミルクをたくさん飲んですくすく育ち、周りから食いしん坊と笑われるくらいにご飯の時間をなにより楽しみにしていた。幼い娘に食べる楽しさをもっと味わって欲しくて、色んな料理を勉強して作っていたあの頃。
 娘は幼稚園の頃からかけっこが得意で、小学校に上がると更に運動能力が高まり、中高一貫して陸上部に所属していた。特に長距離で才能を開花させ、県大会や駅伝にも選手として何度も出場し、その時に授与された表彰状やトロフィーは今でも大切に飾られている。
 娘の大会や駅伝の日は、夫婦揃って早起きし、カロリーや栄養が計算され尽くしたお弁当や食事を用意して、娘を送り届けた足でそのまま応援に立ち回るのが恒例の楽しみだった。
 娘を溺愛していた夫は、普段の物静かな性格はどこへやら、出場している本人よりも騒がしく一喜一憂し、長年連れ添っていた妻をその都度唖然とさせた。
 夫譲りの控え目で生真面目な性格をしている娘は、どんなに優秀な結果を残しても決して浮かれることはない。もっといいタイムを。もっと上を目指しているようだった。そんな娘が、希望の進学先として提示してきたのは経済大学だ。夫婦が意外に感じたのは、娘はてっきりそのままマラソンで生きていくのかと思っていたからだった。
 さすがの夫も動揺して、この時ばかりは、娘の意思を確かめるための言葉を口にした。
「いいの。ここで」娘の意思は堅く、ぶれなかった。
 鮭の焼け具合を確かめながらグリルの火を弱めた。コンロの上では、雪平に満たされた出し汁の中で小さなサイコロ型の豆腐がクルクルと踊っている。青菜を探すために野菜庫を開けた。
 大学生活の最初のうちは、順調だった。
 小松菜を取り出す手が止まる。野菜庫にひっそりと眠る夫の楽しみ、好物のあんこ玉。小ぶりの箱の中は昨夜、夫が一つ食べたそのままの数が揃っている。あんこ玉が夫の唯一の好物だと知っているので、さすがの娘も手はつけないのだろう。それとも見つけられていないのか。