中二病の正体
なぜなら、
「プロットはこうあるべきだ」
という正解は存在しないからだ。
プロットというとして、なず、
「小説のジャンルであったり、登場人物のプロフィール、書き手の人称、つまり、書き手が本人として登場するのか、あるいは、第三者として描いているのか」
ということである。
書き手の人称というのは、ある意味、結構大切なものであり、そこがブレてしまうと、書きたいことを表現できなくなり、話が支離滅裂になってしまい、内容以前の問題になることがあるからだ。
「書いている本人がカオスに陥ってしまっては、読む人間に理解できるわけもない」
というわけである。
そして、プロットとしては、そのあたりまでは、共通して小説の作成に必要なプロットだといえよう。
そこから先は、本当の物語であり、例えば、まずは、物語の展開について考えることである。
それも、人それぞれで、
「起承転結」
という大きなくくりを考えたところから本文を書き始める人もいれば、
「各章は、各場面に至るまでの場面設定を考えてから書き始める人である」
ただ、場面設定まで考えてしまうと、それはシナリオまでできているということであり、骨格に肉付けまでできているわけであり、そうなると、設計図というよりも、ほぼ完成型ができあがっているため、今度は、
「言葉合わせ」
にすぎなくなってしまう。
そうなってしまうと、プロットを書き上げた時点で、ある程度満足してしまい、小説をいざ書こうとした時、自分の向かう先を見失ってしまうということにもなりかねない。
「そんなことになると、果たしてそこから小説を、一から書くことができるであろうか?」
作者はそう思うのであった。
そんなことを考えていると。
「だったら、シナリオライターになればいいじゃないか?」
と考える人もいるだろう。
「シナリオも、小説も、同じ文章という武器を使った創作の一種である」
という意味で、興味を持つには、同じくらいの感情ではないかと思えたのだ。
だが、実際に、小説執筆と、シナリオ作成では、想像以上の違いがあるようで、それは、そもそもの、存在目的から違ってきているので、創作過程において、違うのも、当たり前というものだ。
ただ、それは実際に書いている時には分からない。プロになって、受注を受けた時に分かるものである。
小説というものは、プロになれば、まず最初にプロットの前である企画のようなものを考える。
「どんなジャンルのようなもので、時代背景がどのようなもので、言いたいことは何なのか?」
というところを示し、出版会議に図る。
そして、それが出版社の方で、OKが出れば、そこから先は、初めて執筆が許されることになり、初めて、プロットの作成に入ることになるのだ。
プロットを出版社に示す必要はない。製作が認められれば、出版社としては、
「いつまでに何枚で、合計がどれだけの枚数に仕上げてもらう」
ということを決めておいて、あとは、小説家の先生に任せて、締め切りに遅れないように、作家を見張るというのが一般的なプロ作家の出版の流れであろう。
しかし、プロのシナリオライターはまったく違う。
テレビドラマなどであれば、プロデューサーや監督から、ガチで見張られる形になってしまう。
小説家のように、企画を自分で考えるわけではなく、企画を考え、どのシナリオライターにお願いするかということは、放送局の方が決める。あくまでも、
「この企画に沿ったシナリオを書いてくれ」
という依頼を受けての、シナリオ作成になるのだ。
シナリオの場合は、小説とはまったく違っている。細かいことを、監督だったりプロデューの方が示して、その通りにしなければならない。しかも、テレビドラマなどは、スポンサーありきなので、スポンサーの不利になるような内容は、当然ダメである。
例えば、食品メーカーが主要スポンサーなのに、食中毒の話などを書いてしまうことは当然スポンサーからは、クレームとなり、下手をすれば、
「脚本家を変えてくれ」
などと言われかねないだろう。
しかも、シナリオの場合はある意味、
「生き物」
なので、全部で二十話あったとして、途中で担当脚本家が変わったり、他の人との共同での制作にさせられたりと、完全に主導権は、放送局側にあるのだ。
そして、シナリオで一つ大切なことがある。
シナリオというものは、
「あくまでも主観を入れることなく、客観的に描く」
ということを言われている。
なぜならば、
「ドラマの制作は、それぞれの役割に沿って、役割の人が自分の仕事を真摯に受け止め、作り上げる」
というものである。
つまり、俳優が感情を込めて演技をするためには、あまり脚本家の主観が入ってしまうと、うまくいかないということが言われたりするのだ。
このあたりをしっかりと把握していなければ、放送局側から使ってもらうことはなく、脚本家として活躍できなくなるだろう。
小説家は小説家で、
「自分の力量がそのまま、作品への評価となる」
という意味で、その作品の評価に対しての責任は作家にかかっているといってもいいだろうが、シナリオの場合はそうではない。
どっちがいい悪いというわけではないが、似たような職業に見えても、ここまで違うということを分かっている人がどれだけいるだろう。
それは、作家とシナリオライターに限らず、いろいろな業種に存在していることになるだろう。
それを思うと、小説家とシナリオライターにおける、
「言葉のカオス」
のようなものが、他にもいろいろあると思うと、カオスと呼ばれるものが、曖昧であるだけに、興味をそそられるといってもいい。
まずが、
「言葉のカオス」
というものがどういうものなのか、章を追うごとに考えていきたいと思う作者であった。
「言葉の中には、正反対というべき、相対的なものが含まれているという考えが生まれるのだ」
という観点から考えてみようと思う。
ある兄妹の話
弘前慎吾という男がいる。今は二十五歳になっているのだが、高校時代の友達に、
「坂口兄妹」
というのがいて、兄の雄二と同級生で、結構仲が良かった。
時々遊びに行っては、妹の裕美とも挨拶を交わしていたが、裕美は結構積極的に話しかけてくれていた。
最初に見かけたのは、小学六年生の頃で、その頃は、
「早く、中学生になりたいな」
と言っていたものだった。
坂口と仲良くなったのは、高校二年生の頃で、その頃まで、弘前も坂口も、お互いに他に友達はおらず、ある意味、
「似たもの同士」
ということで、仲良くなったのではないかと思っていた。
お互いに家も近かったので、よく一緒に遊ぶことも多かったが、弘前は自分の家に呼ぶというよりも、坂口の家に遊びに行く方が多かった。坂口の方で、
「いつでもいいから、来てくれよ」
と言っていたので、ついついお言葉に甘えていたというのも、あるのだが、それよりも、妹の裕美に会いたいというのが、本音だったかも知れない。
まだ最初は小学生だったので、すぐには意識をすることはなかったのだが、中学に入ってから、急に、
「大人びた身体」