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人生×リキュール コアントロー

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 猫っ毛につきものの薄毛の悩みに苦しみ、透けて見える頭皮をカバーできる髪型を常に考案し続けている今年六十になった同居人は、猫が嫌な匂いを嗅いだ時のように微妙な表情を作ると、少なくなった若さが吐き尽くされてしまうんじゃないかと心配してしまうほど長い長い溜め息をついた。
「心配をかけちゃったけど、でも、そういうことだから。大丈夫よ。手術をしたほうがいいみたい。まぁしといたほうがいいわよね。そのあとも通院しなきゃいけないみたい。この忙しいのに、ほんと参っちまうわね」当分、仕事はお休みするしかないわーと彼女が早口に捲し立てて苦笑いを浮かべるのを彼は一言も発せずに見守っていた。
「とにかく、今週末には手術だから。あら!今週末って確か関西で美容師講演会があるじゃない!」と、スケジュール帳を取り出してわざとらしいことを縷陳し始めた。
「ねぇ、悪いんだけど、あたしの代わりに行って来てくれないかしら? 講演する内容はもう資料も揃っているから読み込むだけだし、あなたのオリジナルを織り込んだっていい。手術って言っても入院は三日くらいだし、あたしは一人でも大丈夫だから、せっかくだから向こうで温泉に浸かってゆっくりと羽根でも伸ばしてきたら? あなたも働き過ぎなんだし、店を任せられる若手も大勢育っているんだから数日くらい大丈夫よ」せかせかと彼に予定と提案をしていく彼女。それを見つめる寡黙な彼。同居人はメールのほうがおしゃべりなのだ。
 この同居人は付和雷同型というわけではないのだが、あまり彼女に反論はしない。それは彼女が狷介不屈だからではなく、公私共のパートナーとして長い時間をかけて編み込んだブレイズのように完成された信頼感がそうさせるからだった。猪突猛進型の彼女はどんな時にもどんなに歳を重ねても真っ直ぐで勢いがあり、彼はそんな彼女を愛していたのだが、未だに結婚という形にスタイリングできないでいる。原因は、彼女だった。
 彼女が結婚という一般的過ぎる固定された形を嫌っていたのだ。
「世の中のカップルが最終的に坊主とおかっぱにしなきゃいけなくなったとして、それに倣う必要ってある?」
 この独特の彼女の理論は、不仲だった両親に起因しているらしい。結婚とはお互いを縛るだけの不自由なもの。そう幼いながら認識してしまった彼女は結婚に関してはすこぶる否定的だった。
 だが、お互いに四十を超えた辺りから彼は懸念していた。
 このまま老後を迎えるにあたって、どちらかになにかがあった場合、このまま宙ぶらりんの状態でいくら事実婚だとしても籍が入っていなければ、法律が絡んだ諸々の手続きや権限の面で困る事態に陥るのではないか。そんなことが薄毛の悩みと交互に彼の頭に去来していた。彼女が半寿に近付く今、自分がどうにかしなければいけない。今回の彼女の診察結果を聞きながら、彼の胸には決意が漲ったのだった。
「わかった。行くよ」
 暫くして発せられた彼の言葉に、胸を撫で下ろした彼女は、明日から始まる放射線治療の副作用として抜けてくるだろう髪の毛の言い訳を思案し始めていた。
 どうしたってウィッグで誤摩化せないのが、美容師の悲しいところよね・・・
 どうせ短い余命なんだから、いっそのこと治療をせずにこのままうっちゃってしまおうかと投げ遣りになりもしたが、着実に癌細胞に浸食されていく己の体が発する痛みや苦しみが彼女の浅慮を揺るがしたのだ。放射線治療をしたところで、どうせ死ぬことに変わりないんだろうから、治療をやってみて続けるかどうかを決めるのも悪くないわ。ドラマや映画や漫画などで得た知識しかない闘病という未知の領域に足を踏み入れる覚悟が自分にあるのかどうかは定かではなかった。死というものが今いち立体的に感じられず、もしかしたら徐々に体が死んでいく苦しい過程の中で自然と立ち上がってくるものなのかもしれないわなどと朧げに想像できただけだ。
 翌日、彼は関西に旅立って行った。

 ショートヘアの看護師に点滴を打たれながら、彼女は朦朧とした意識を取り戻そうとしていた。
 想像以上に辛い放射線治療が、効いている実感の得られないままに続けられる。地獄のようだった。いや、地獄はもっと辛いのだ。苦しんだ後に落ちる地獄のことを想見すると気が滅入り、治療に向き合う気力が萎えた。
 もうやめようかしら・・・
 始めて三日目。彼女は決断しようとしていた。なんせ、今夜には事情を知らない相方が帰宅するのだ。まだ目立った抜け毛はないが、このままでは遅かれ早かれ気付かれてしまう。
 この三日間、治療の痛みに耐えながら、彼女の中に密かに芽生えた計画があった。
 このままなにも知らせずに、彼の前から消えてしまおう。
 思えば結婚に否定的だったのも、無意識のうちに巻いた布石だったのかもしれない。
 どこかで、彼に負担をかけたくないと思っていた。自分の如何なる事情でも彼を束縛したくない。そんな思いから、彼のプロポーズを断り続けたのだ。そんな押し問答を繰り返しているうちに、幼いばかりだった年下の彼もいい中年になってしまった。けれど、男は中年になっても相手が若ければ充分子作りが可能だ。かの豊臣秀吉は、五十代で孫と呼んでも差し支えないような十代の嫁を娶ったのだ。今の機を逃してしまったら、彼の心を永遠に縛り付けることになってしまうだろう。死んだ自分はそれでいいかもしれないが、残される彼の気持ちになってみれば、ひたすら寂しくしんどいだけ。想像するだに悲しく、憐憫の情に駆られてしまう。
 残された時間が僅かなあたしが彼にしてあげられることは、彼をあたしから解放してあげること。
 今夜、それを実行しなければ。
「久しぶりに、外食しないか」
 帰宅した彼を待ち受けて、早速別れ話を切り出そうと口を開いた彼女を遮るようにして珍しく彼が誘ってきた。
「君の大好物のパスタを食べに行こうよ」
 かつての彼女は、主食として食べるようになっても絶対に飽きないと豪語していたくらい、大のパスタ好きだった。だが、今の彼女の消化器官に、パスタはジャンク過ぎる。治療の甲斐もなく徐々に転移箇所が広がっていた。けれど、断る理由がどうしても見つけられない。彼に怪しまれるわけにはいかない。とにかく、おかしい素振りを見せたらダメだ。痛みが下腹部を中心にじんわりと広がり出した。彼女はそれを我慢して、大袈裟に喜んだ振りをして見せた。そして腹痛に耐えながら、いかにも機嫌が良さそうな風を装って化粧をし、服を選び始める。そんな彼女の様子を、まんじりともせず見つめる彼に彼女は気付けなかった。
 寄り添って歩く、夜の帳の降りた街。
 あと何度、彼とこの世でこうして歩くことができるのかしら?
 出かける直前に洗面所で慌てて服用した痛み止めは効いてきているようが、気分が悪かった。呼吸の乱れを誤摩化しながら必死に足を前に出す彼女の胸の内には、やるせなさが渦巻いていた。