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孤独の中の幸せとは

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 そうでなければ、これからも、類似の詐欺が起こらないとも限らない。これを教訓として、騙されないようにもするだろうが、騙そうとする方でも、検証をして、さらにいかに騙すことができるのかを探ってくるに違いない。
 それこそ、
「キツネとタヌキの騙しあい」
 であり、いたちごっこを繰り返すという意味で、
「籠の中に設けられた輪の上をすzと走り続ける、ハツカネズミを思わせる」
 そんな光景が思い浮かぶのだった。
 そんなこともあり、空前の、
「作家志望者の増加」
 による、にわか作家の数が、どんどん減っていき、本当に趣味で書いているか、地道にプロを目指して頑張る人しか、小説を書かないという、
「正常な状態」
 に戻ったといえるだろう。
 小説家というものが、どれだけ難しいかということが分かった人も多いだろう。
 新人賞に入賞したとしても、それは通過点でしかない。そこからどれだけの人がプロとして生き残れるかということも分かっていないと、ここでも勘違いしてしまい、人生を踏み外す人もいるだろう。
 それでも、今度は詐欺に引っかかったわけではない。詐欺がなくても、悲惨なことには大いになる可能性があるのだ。それを思うと、
「芸術というものへの道は、段階があって、その段階だけで満足していてはいけないのではないか」
 と言えるのではないだろうか。
 そもそもはバブルが崩壊し、
「お金はないが、時間だけはある」
 という人が増えたところから来たものだ。
「お金もないのに、よく出版しようと思ったものだ」
 と後から考えればそう思うのだが、それこそ、人間の心理の恐ろしさ。
 真剣に、
「これは先行投資だ」
 とでも思ったのだろうか。
 もし、そうであるとすれば、
「人間というのは、欲を前にすると、本当に自分に都合のいいようにしか考えられなくなるものなのかも知れないな」
 と感じるのだった。
 考えてみれば、これが根本にあることが、直接の原因だったのではないだろうか。この心理がなければ、事件は起こらなかった。確かに、詐欺グループは表面上のことだけにとらわれて、それを追いかけるがゆえに、このことを意識もせずにスルーしてきたおかげで、相手を騙すことができたのだし、騙される方も、騙されたことに気づかなかった。
 だが、それだけたくさんの人がかかわったわけで、その中の誰も気づかないなど、その方が不自然ということではないだろうか。
 ただ、この理屈に気づいたとしても、これをいかに利用するかということが分からない。だから、最終的には悲惨な結果になるしかないのだった。
 そもそも、
「自分が作家になれるかも知れない」
 という浅はかな考えの人が多かったことで、詐欺に付け込まれたのだ。
 詐欺を行う方も、相手を、それもよりたくさんの人を騙せるという意識がなければできることではない。
 いくら何でも、これが自転車操業であることを分かっていない人が経営のトップにいるなどありえない。曲がりなりにも数年は、うまく転がせていたのだからであろう。
 しかし、この事業も、ある意味戦争と似ているのではないだろうか。
 前述の、
「かの戦争」
 についての話ではないが、
「撤収のタイミングが難しい」
 と言えるのではないだろうか。
 戦争も、こちらが圧倒的に弱い立場なのだから、いつ、
「最高の状態で和平に持ち込むか?」
 というのが、最大の戦争遂行理由だったはずなのだが、序盤に勝ちすぎたために、欲が出てしまって、当初の目的を逸脱した政府や軍が、先行してしまったことが、敗戦、しかも、国の滅亡という悲惨な状況を作り出したのではないか。
 そのあと、いくら復興ができたとしても、それは、理由が違うところにあったのだから、国が滅亡したことには変わりない。
「国破れて山河あり」
 とは、まさにこのことである。
 出版社の方も、本当であれば、ある程度設けたところで。うまく撤収すればよかったのだろう。
「戦争も結婚も、始めるよりも、辞める時の方が数倍大変だ」
 ということであるなら、自転車操業も同じである。
 いや、むしろ、結婚も戦争も、やめなければいけなくなるのは、自転車操業のようになってしまって、二進も三進も身動きが取れなくなることが原因だといえるのではないだろうか。
 始めた時、果たして、どこまで計画性があったのだろうか?
 考え方によっては、深く考えていなかったともいえる気がする。
 つまり、
「相手の気持ちを引き付けて、宣伝によって、本を出したいと増えてきたにわか作家に、金を出させるところまでができれば、あとは何とかなる」
 とでも思っていたのか、それとも、
「そこまで順調にいけば、その時にまた考えればいい」
 という思いから、一刻も早く、他の会社がマネをする前にやってしまおうと思ったに違いない。
「先にやってしまうと、他の会社が追随してくることで、会社がうまく回っていくという状態を見定めることができる。つまりは、一歩下がってみることができる余裕ができるというもので、その間に、ゆっくり状況を見ることができて、撤退の時期を模索することもできるのではないか」
 と感じることができるのだろう。
 ただ、実際にここまでくると、それを考えることをしなかった。それは、かの戦争の時のように、
「儲かっているから、撤退の必要はない」
 という勘違いをしたのか、それとも、撤退をするという計画自体を忘れてしまっていたのか、眼中にない状態だったのかも知れない。
 というよりも、時代の断片を切り取ると、いろいろな場面の人がいる。これから本を出そうとする人、本を製作中の人、すでに本を出してしまった人、それぞれの立場の人がいるのに、断片だけを切り取って考えることがどれほど難しいかということを、分かっていなかったのではないだろうか。
 そう思うと、きっとやめられないということに気づいたのかも知れない。
 そして、その中で茂三が考えたのは、
「俺は不幸なのかも知れないが、この時の加害者や被害者ほど、自分は不幸ではない」
 という思いであった。
「上を見ればきりがないが、下を見てもきりがない」
 と言われるがまさしくその通りだろう。
 だからこそ、不安に感じるのかも知れない。前を向いても、後ろを見ても、五里霧中で、そのうちに、どちらが前で、どちらが後ろなのか分からなくなる。それほど意識が悲惨な状態になると、惰性で生きることが楽なの丘、きついのかが分からず、本来であれば、何も考えずに身を任せることが楽なはずなのに、何も考えないことが億劫に感じられるようになると、今度は、楽天的に考えるしかないのではないかと思うようになるのだった。
 とにかく、最悪になると、何を考えるかということを想像したことがあっただろうか?
 茂三には、時々そんなことを考える時期というのがあったのだ。
 自分で最悪だということを、本当に感じているのかどうかも分からない。たぶん、
「最悪だと考えた時には、その感情に流されるのが一番いいのではないか?」
 と感じるだろうと思っていた。
 何が楽だといって、それが一番楽であるし、一番最初に思いつくことだからである。
作品名:孤独の中の幸せとは 作家名:森本晃次