孤独の中の幸せとは
そんなことを考えていると、
「せっかくの人生、いつ何が起こるか分からないということで、今のうちに、自分が生きた証になるものを自分が納得するために、残しておきたい」
と思った。
それは、自分のものが売れたとかそういうことではなく、
「自分の残したいものを残す」
という意味で、考えたのが、
「小説を書いて本を出したい」
ということだった。
幸いにも、原稿を送れば、見積もりをしてくれる出版社があるようなので、そこに原稿を送ってみることにした。
最初から、
「怪しい」
とは思っていた。
だから、怪しさを感じながら、恐る恐る扉を叩いたような気持ちだったのだ。
最悪の場面に
だが、小説の原稿を書いても、実際に見てもらったり、ましてや、評価をもらうなど、それまではまったく不可能だった。小説を書いたとして、ネットもない時代、どうやって発表すればいいというのか、それこそ、文芸サークルに入って、機関誌でも発行するか、あるいは、同人誌に送るかくらいしかなく、それもジャンルが決まっていたりして、発表したとしても、自己満足でしかなかった。
そんな自己満足であっても、小説を書いていると、
「いずれは」
と思うのは、新しいものを自分で作っているという気持ちの表れではないだろうか。
それは小説に限らず、芸術的なことであれば、そのほとんどは、何もないところから新たなものを作りだすという意味での共通点は多いだろう。
絵画しても、造形にしても、新しいものを作ることに変わりない。その場合の共通点というのは、
「自分の個性が入り込んでこないと、作り上げることはできない」
ということであろう。
それでも、やはり、
「誰かに見てもらう」
というのは、自分が今どのあたりにいるのかが、まったく分からないよりも、ましなはずである。
前を向いていけばいいのか、それとも、少し避けてあるいた方がいいのか。そのあたりを考えてしまうと、他人の目や評価のないことが、急に足元が割れてしまって、、奈落の底に突き落とされるような恐怖に打ちひしがれそうで怖いのだった。
そんな時に、さっそうと出現したのが、
「本にしませんか?」
という謳い文句をひっさげた、新たなタイプの出版社だった。
彼らは、そんな不安な気持ちになっている素人作家の心を巧みに掴んでいた。
会社を運営している人たちは、きっと自分たちも作家として、不安な毎日を過ごしてきた人たちだろう。
不安を抱えながら、そのまま先に突き進む比十いれば、一歩立ち止まって、
「待てよ?」
と冷静になったことで、違う才能が目覚めたのかも知れない。
それが、金儲けという才能で、自分たちの経験を売り物にして、それを、商売道具にするのだから、罪悪感もないのかも知れない。
「自分が書いた作品を読んでもらえない」
つまりは、出版社へそのまま持ち込んでも、笑顔で受け取ってくれたとしても、作者が帰った瞬間、顔を歪めて、何もなかったかのように、原稿をゴミ箱に放り込む。ゴミ袋の中には、そんな持ち込み原稿が一日分だけでいっぱいになるかも知れない。それが、昭和の時代までだっただろう。
しかし、バブルが弾けたおかげで、趣味に走る人が増えた。しかも、お金のかからない趣味である。
小説などは前述のとおり、普通ならお金がかからない。だから、猫も杓子も書こうとして、にわか小説家が増えてくる。
さらに、有名出版社が主催する、
「文学新人賞」
なるものは、原稿を送っても、
「審査についての質問には一切お答えできません」
という回答が返ってくるだけだ。
つまりは、自分の作品が、一次審査、二次審査、最終審査のどこでダメだったかということくらいは分かるが、その中での順位や、何がダメだったのかなど、一切分からない。Sと少しの努力で最終審査まで残ることができるのか、それとも、箸にも棒にもかからないような小説なのか、まったく分からないのだ。
しかも原稿に対して批評も何もない。最終審査に残った作品だけが、批評してくれている賞があれば、マシな方ではないだろうか。
なぜなら、最終審査に行くまで、プロの作家、つまり、審査委員として、公表されているプロ作家が見るわけではない。そもそも、同じ作品を何度も見るくらいなら、審査は一度で十分のはずだ。
ちょっと考えれば分かるはずのことである。それを誰も分からなかったというのは、それだけ、皆の期待だけが大きかったというのと、出版社側のやり方が巧みだったといえるのではないだろうか。
その証拠に、原稿を送ってから、それについて、さすがに添削まではしてくれないが、批評はつけて返してくれる。どこがいいのか、悪いのか、その書き方も実に巧みであった。
いいところばかりを書いていれば、いかにも、作者の気持ちはいいだろう。しかし、それは人が見れば姑息にも見える。それだけに、まずは、悪いところを、いかにも腫れも二にでも触るかのように、言葉を選びながら批評し、
「しかし、欠点を補って余りある秀逸な作品」
と、一度落としておいて引き上げるのだから、うまい作戦である。
最初に長所から書いてしまうと、短所は単独で悪いことになる。しかし短所から先に書けば、
「長所は短所の裏返し」
という言葉を実践しているようで、この方がよほど、作者の胸を打つというものだ。
しかも、この書き方だと、いかにも信憑性があるように感じられ、作者のこれからの創作意欲をくすぐることにもなる。
そして、最後に、
「あなたの作品は秀逸であるが、出版社がすべてを請け負って出版するところまではいっていないので、協力出版の形を提案いたします」
とばかりに、巧みに協力出版としてお金を出させることに終始するのだ。
その手に引っかかった人は、相当の数がいるようで、月に数百冊という単位で出版する。そして、全国で出版部数だけで見れば、日本一の会社となって、それがまた宣伝となることで、原稿が送られてくる。
ここからが、出版社の自転車操業の始まりだった。
ただ、出版社もここまではよかった。
バブルが崩壊したおかげで、趣味に生きる人が増えて、自分の作品がお金になるかも知れないと思うと、作者は有頂天になる。
何といっても、最初にお金が少々かかっても、売れさえすれば、次からは出版社が出してくれる。作家も先生として、立ててくれて、本がどんどん売れる。
などという浅はかな夢を負わせるのだ。
しかし、ちょっと考えれば、これほどバカげたことはないだろう。
新人賞を取った作家であっても、次回作が書けずに、消えていく人が多い中、何の実績もない作家の本が売れるはずもなく、これだけ毎月、本が出るのであって、そのうちのどれだけの人が生き残っているかということも、考えれば分かるはずのことだ。
それを思いつかないほどに、小説というものを執筆できるようになるだけで、
「自分は一端の小説家だ」
と感じるようになるのだろう。
「上には上が」
ということが見えなくなってしまうと、相手の思うつぼであった。