Dogleg
神崎は22口径を持ったまま、名残惜しそうに入口を見つめた。もう、追いかけても間に合わない。仕草でマイクを切るよう伝えると、姫浦はスーツの裏側に手を伸ばして電源を切った。
「切りました」
神崎は、22口径から手を離すことなくテーブルの上に置いた。それがブローニングバックマークだということに気づいた姫浦は、向かい合わせに座り直して、言った。
「貨物船の仕事でわたしが使ったのも、その銃でした」
「そうだったな」
神崎は短く言うと、入口の方に視線を向けた。
「お前は、あの仕事を終わらせていない。それを知ってる奴が、ひとり増えた」
姫浦は、神崎が杉本を撃とうとした理由を理解し、首を横に振った。
「三カ月かけて、教えたんです」
「その技術を、お前に使うかもしれないんだ。稲場にどうやって説明する?」
「人違いだと報告します。その証明のために、この場を設けたと」
そのきっぱりとした口調に、神崎は納得したように小さくうなずいた。姫浦はマイクに一度触れると、電源が切れていることを確かめるようにクリップに手を置いたまま、言った。
「発着所で起きたことなんですが、本当に銃を向けられて、撃ち返さなかったんですか?」
神崎はうなずいた。姫浦は根競べをするように神崎の目をじっと見つめた後、半ば諦めたようにうなずいた。
「分かりました。信じます」
「杉本の話は、あくまであいつの個人的な問題だ。あまり肩入れするなよ」
神崎が念を押すように言うと、姫浦は再びうなずいて、体を少し引いた。神崎は緊張を解くと、十一年前の記憶を頭に呼び起こした。確かに、ベレッタM84の銃口は一度こちらを向いた。引き金を引けるような態度ではなかったし、その手は震えていた。『こいつは、小学校からの付き合いだった』。川添のことを指差して言った後、『あんたを殺しても、追手が増えるだけなんだろ』と続けた。その次は、予測できなかった。
『これで終わりにする。俺のせいで家族が狙われるのは、ごめんだ』
杉本の兄がそう言って自分の頭に銃を向けたとき、どうして止めたのかは今でも分からない。もちろん放っておけば死体はひとつ増えて、辻褄が合わなくなっただろう。しかし、今それを姫浦に言う気にもなれないし、杉本にも言いたくない。これは、杉本の兄と交わした、暗黙の約束だ。自分で死のうとしているところを他人に止められるほど、恥ずかしいことはない。会話が止まって場が静かになったとき、姫浦が言った。
「わたしの教え方が、悪かったんでしょうか」
神崎は首を横に振った。
「北河は死んで、おれ達はこうやって生きてる。だから、おれ達が正しい」
「人探しの件は、よろしく頼みますね」
姫浦は立ち上がると、真っ二つになった爪を見下ろした。神崎はうなずくと、バックマークを鞄の中へ仕舞いこんだ。姫浦が背中を向けたところで、言った。
「甘すぎるんじゃないのか?」
姫浦は振り返ると、口角を上げた。
「そうですか? でもあなただって、生きてるじゃないですか」
二〇一二年 四月 ― 十一年前 ―
深夜二時、プリメーラを運転する大野が持ち場に着いて、助手席に座る重森からの無線が北河のイヤーピースに届いた。
「動きなしです」
北河はうなずくと、インプレッサタイプRの運転席でハンドルをこつこつと叩いた。狭い後部座席でうずくまるように座る姫浦を振り返ると、言った。
「その状態から、体動かせるか?」
「大丈夫です」
慣れないスーツを着た姫浦は、ワイシャツの襟が邪魔なように首を傾けながらうなずいた。明るい茶色の髪がその顔にかかったとき、北河は苦笑いを浮かべながら前に向き直って、シフトレバーに手を置いた。
「おれの左手を見てろよ。起き上がるタイミングが来たら、人差し指を立てる。助手席側にまっすぐ向けて、引き金を引け。雨が降ってるのは、好都合だ」
「はい」
姫浦は呟くように答えた。北河はもう監視役ではなく、神崎と同行する日々も終わった。独り立ちしてから北河の『チーム』に呼ばれたのは、これが初めてだった。
「相手は三人いる。運転手は丸腰、助手席と後部座席の奴は銃を持ってる」
北河は言い、助手席に置いたM870ウィットネスプロテクションのグリップを引き寄せた。
「スーツは慣れないだろ。でもな、ジャージは卒業だ」
「頑張ります」
姫浦の言葉に、北河はパーラメントの煙を吸い込みながら笑った。
「で、卒検はどうだったんだ?」
「卒検って、何ですか?」
姫浦が訊き返すと、北河はバックミラー越しに視線を合わせた後、体ごと振り返った。
「神崎と飲みに行ったんだろ?」
姫浦はうなずいた。絶対的に有利な位置に立つために、相手の隙を見つけろと言われた。そして、相手を殺す最も簡単な方法は、まず友達になることだとも。スーツを着ていったが、そんなことはどうでも良かった。北河が『卒検』と表現した通り、あくまで人を殺すための仕上げを施す会だった。
「あいつの言いそうなことは、だいだい察しがつく」
北河がパーラメントの煙を狭い車内にぷかぷかと吐き出し、姫浦は自分の膝に顔をうずめた。他の匂いが混ざることに、今は耐えられない。
「これからは、チームプレーの時代だよ」
北河が言ったとき、無線が鳴って重森の声が届いた。
「標的がこっち側を通過します。シルバーのローレルです」
「了解」
北河はシフトレバーに手を置いた。大野と重森は、半円形の道路をぐるりと回った反対側にいる。建物が邪魔をして姿は見えないが、直線距離にして三十メートルほど。標的の車は、そこから交差点をひとつ跨いでこの道に入ってくる。
「三分後だ」
「はい」
姫浦は、北河の言葉に短く答えた。相手の車が現れたら、同じスピードで並走する。ちょうどの角度になったとき、北河がシフトレバーを持つ手の人差し指を上げる。頭の中で繰り返していると、北河がバックミラー越しに姫浦の顔を見て言った。
「先週だけど。田邊のところで解剖結果を見せてもらった。あの仲介役の件だよ」
姫浦がバックミラー越しに目を合わせると、北河は口角を上げた。
「頭をほじくり返して出てきたのは、380ACPだった。お前は確か、45口径を持ってたはずだ」
姫浦は観念したように、首をすくめた。
「仰る通りです。わたしが着いたときは、すでに死んでいました。予定と違って二人いたので、入るのが少し遅れました」
「まあ、構わないけどな。自分から稲場に言うなよ。おれ達は口外しないから、安心しろ」
姫浦は、北河がどうして『予定通り』と言ったのか、その理由を問おうか考えたが、指示通りに引き金を引いていない自分の方が分が悪いということを同時に理解し、言葉を発する代わりに俯いた。沈黙が流れ、インプレッサの低いエンジン音が響く中、無線で重森が割り込んだ。
「連中、律儀に信号に引っ掛かってました。今、そっちに動いたので、あと一分です」
「神崎なら、予定と違うって言って帰るんじゃないか」
北河が笑いながら言うと、重森の代わりに大野が無線を取った。
「あいつなら、そうするでしょうね」
ローレルのヘッドライトがミラーに反射し、北河はバックミラー越しに姫浦の目を見て、うなずいた。
「来るぞ」