Dogleg
そんなことを言った気もする。姫浦は、夜中に倉庫の軒先で話したときのことを、頭に呼び起こした。杉本は二人の様子を観察しながら、相手の言う通りに椅子へ座った自分の判断の甘さを呪った。アイスコーヒーを飲みながら待ち構えていたこの男は、関係者どころか、芳人が消えることになった一連の出来事に登場していた『ノリの違う連中』のひとりだ。その横顔に目を向けた姫浦が言った。
「杉本さん。この場を設けたのは、あなたが相当危ない立場にいるからです」
杉本は、神崎の視線から逃れるように姫浦の方を向いた。姫浦は、できるだけ感情を隠せるように大きく開いた目を向けた。
「この組織に入ったのは、誰が兄を殺したのか調べるためでしょう」
神崎は、自分に全く関係のない話が始まったように、片方の眉を上げて姫浦の方を向いた。杉本は今までのやり取りに口を挟まないよう歯を食いしばって耐えていたが、ようやく息を深く吸い込むと、神崎の目を見返しながら言った。
「兄を殺したんですか」
神崎は顔をしかめると、記憶を探るように一度宙を見上げ、何も手掛かりを得られなかったように前へ向き直って言った。
「あんたが誰の弟か知らないのに、分かるわけないだろ」
しばらく考え込むように目を伏せた後、神崎は姫浦に言った。
「ホトケを持って行ったんじゃないのか? 身元は分からなかったのか?」
「わたしは何も聞いてません。当時は、誰を殺すか名前も顔も知りたくなかったので」
姫浦はそう言って、過去の自分が恐れていたことを追体験するように、顔を曇らせた。杉本が意外そうに自分の横顔を見ていることに気づき、続けた。
「昔は、無防備な人間を殺せなかったんです。だから、あの現場にも中々入れなかったし、そもそも引き金すら引いていません」
神崎の目の光が微かに暗くなったことに、杉本は気づいた。まるで、頭の奥にある誰にも見えない小さなスイッチが切り替わったような。姫浦は小さく息をつくと、半ば呆れた表情を神崎に向けた。
「そしてあなたは、銃声を鳴らすようなことは絶対にしない」
「あれは、ベレッタM84の発砲音だ。ひとりが持ってた。派手な銃だったよ」
杉本は、芳人がベルトに挟んでいた拳銃を思い出していた。ローズウッドのグリップに、エングレーブが入った特別仕様のスライド。
「兄は、同じ銃を持ってました」
「そっちの弟か。じゃあ、安心しな。おれは殺してない」
神崎の口調が柔らかくなり、杉本は表情を緩めた。芳人はどこかで生きている可能性がある。姫浦は杉本の態度が軟化したことを感じ取り、開いていた拳をゆっくりと固めた。神崎は言った。
「おれの言葉が信用できないなら、姫浦にも確認しようか。田邊のところに運んだホトケは、ひとりだったな?」
「はい」
姫浦が短く答えると、神崎は続けた。
「じゃあ帰り道に、田邊医院に寄ればいい。カルテが残ってる。そいつの名前は、川添尚樹だ」
そこまで聞いて初めて、杉本はケーブルカー発着所で何が起きたのか。頭の中で結び付けた。この二人は、引き金を引いていない。
「芳人……、兄が撃ったんですか?」
神崎がうなずき、杉本は芳人の顔を思い浮かべた。それをやってのける人間だと上書きするまでには相当時間がかかりそうだし、今はにわかに信じる気にもなれなかった。
「兄ができるとは到底……」
杉本は俯きながら自分に言い聞かせるように呟いた後、神崎の顔を見上げた。
「いや、あなたが兄の銃を使って……」
「おれは常に、自分の22口径を持ってる。それは姫浦が嫌というほど知ってるはずだ」
神崎はそう言って椅子の背もたれに浅く体を預けると、さらに記憶を深堀りするように目を細めた。
「弟か。川添と組んで、何かやってたのか?」
「いいえ。誘われはしましたけど。兄は何か言ってましたか?」
杉本は、ファミレスで話したときのことを思い出していた。その次の日に電話がかかってきて、『車で拠点を回ってほしい』という依頼が来たことも。
「あんたの兄は、弟を仕事に誘ったかと、川添に聞いた。答える前に引き金を引いたから、答えは分かってたんだろう」
杉本は、自分が記憶している芳人の情けない姿に影がかかるのを感じた。記憶は上書きされ、同じ場所に新しく生まれた兄に対するイメージには、計り知れないぐらいの力強さがあった。
「兄がそんなことをするとは……」
芳人は窮地に陥ったとき、いつも自分のことを『のぶちゃん』と呼んだ。 今思えば、考えることが少なくて済んだ子供時代に、時間を巻き戻したかっただけなのかもしれない。
「生きてるんですね?」
「少なくとも、おれは殺してない。他に命を狙われてた可能性はあるけどな。とにかく、今までにやってきたことが色々と積み重なってたらしい。本人は、それを気にしてたよ」
「なんて言ってたんですか?」
杉本が訊くと、神崎は昨日のことのように答えた。
「おれに銃を向けて、あんたを殺しても追手が増えるだけだと言った」
姫浦が小さく首を横に振り、神崎は苦笑いを浮かべた。
「納得いかないか? 初対面の相手に引き金を引ける人間かどうかは、見れば分かる」
「いえ、その通りのことが起きたんだと思います」
姫浦はそう言うと、杉本の方に少しだけ姿勢をずらせて、足に力を込めた。神崎は理由もなく人の話を聞かない。それにこのあっさりとした態度は、どこか引っ掛かる。神崎は言った。
「兄を見つけたいんだろ。そういう話なら、今からでも手伝える」
杉本の目に光が灯り、神崎は口角を上げた。
「殺し以外なら、料金は二割引きだ」
杉本が思わず笑ったとき、姫浦は杉本を突き飛ばして神崎がまっすぐ構えた22口径の銃口を掴んだ。サプレッサーをしならせる強さの力が掛かり、銃口に姫浦の指先が被っていることに気づいた神崎は、万力のような力で固定された銃越しに姫浦の目を見た。
「離せ。商売道具に穴が空くぞ」
杉本が立ち上がってリュックサックからグロック19を抜こうとしたとき、姫浦は首を横に振った。
「杉本さん、車に戻ってください。こっちは大丈夫です」
姫浦はサプレッサーを握り込む指へ、さらに力を込めた。中指の爪が割れて血がにじみ出したとき、神崎は言った。
「大した自信だな。指がなくなったら、どうやって引き金を引く?」
姫浦は空いている方の手でナイフを抜き、逆手に構えた。
「わたしがどうやって戦うかは、知っているでしょう。あなたが片方の手をばらばらにしても、こっちの手が殺します」
杉本は後ずさったが、リュックサックの中へ手を入れた瞬間に殺し合いが始まると考えて、本能に逆らうように拳を固めた。姫浦は杉本がまだそこにいることを気配で感じ取り、神崎の方を向いたまま念押しするように言った。
「杉本さん、お願いします」
ためらうような足音が響いて店の外へ出て行ったとき、神崎は用心金から人差し指を抜いた。姫浦がサプレッサーを握り込む手の力を緩めたことに気づいて、言った。
「本当に、構わないんだな?」
「何がですか? 何が問題なんです。あなたの頭の中は、わたしには全く分かりません」
「それは、お互い様だ」