Dogleg
杉本は小さくうなずきながら言うと、イヤーピースを片耳にとりつけて、朝日から顔を背けるように林の中へ入っていった。姫浦はスカイラインのエンジンを止めると、歩き始めた。杉本が自分の兄の運命を知りたがるのは、無理もない。信頼関係が命綱の商売で、よりによって顧客を売った男。そんな人間が最後にどんな目に遭うかは、この業界に身を置いていなくても分かることだ。ガムテープで封をされた郵便ポストの前まで来ると、姫浦は一度後ろを振り返った。ここから脇道に逸れて数分歩くと、喫茶店がある。テラスと店内はガラスで仕切られていて、全体的に透明感のある建築物。そこが待ち合わせ場所で、こちらが後から入る予定だ。その前提を崩すと事前の合意も崩れるから、敢えて遅れる羽目になった。
貨物船の仕事と、その事後処理。十一年前の記憶。姫浦は、細い脇道へ足を踏み入れながら、思い出していた。腕の傷口が塞がった後、北河が仕切る事後処理で『前に出る』ことになったのは、自分だった。大野が薬の売人を装って別ルートから仲介人の身辺を探り、殺すためのお膳立ては全て揃っていた。木造の喫茶店が木々の間に姿を現し、姫浦は歩調を緩めることなく歩き続けた。あまりにも前のことで、ほとんど忘れかけていた古傷。
確か現場は、ケーブルカーの発着所跡だった。仲介役はそこで取引相手と会う予定になっていて、こちらは相手が帰って仲介役ひとりになったところを狙うという段取りになっていた。監視役を務める北河からの最終連絡は『予定通り』という短い言葉。いよいよ出番が近づいてきたとき、神崎から電話がかかってきて、『気をつけろ、もうひとりいるぞ』と言われた。計画が狂い、北河に連絡を入れようか迷っていたら、発着所跡の中から一発の銃声が聞こえた。
姫浦はそこまで思い出したところで、太陽の方向を改めて確認した。まだ東にいるから、喫茶店の方へ影が伸びている。必ず影の方向を意識しろと、神崎には事あるごとに言われた。その真っ黒な分身も含めて、自分の体だと。十一年前、北河にどう話すか迷っていたときも同じで、何か参考になる言葉が聞きたかった。だから、北河に電話するべきところを、何故か全く仕事に無関係なはずの神崎にかけてしまった。
『銃声が鳴ったんですが、確認したほうがいいですか?』
『計画が狂ってるんだ。用心したほうがいい』
すでに何かが始まっていて、一発銃声が聞こえたということは、確実に武装している。最悪の場合、仲介役と取引相手の三人と戦わなければならない。しかし、北河の用意した銃が45口径のグロック21だったこともあって、仕事に対する熱意が勝った。蓋を開けてみれば、どうってことはなかった。現場に入ってすぐ、乗り場の真ん中に頭を撃たれた男が倒れていて、それで終わりだった。傍に落ちていた薬莢を拾っているときに、ふと思った。『この死体は一体誰なんだろう』と。そして同時に、相手の顔を事前に見ることを徹底的に避けてきた自分を呪った。北河は『どの道殺すんだから、一緒だろ』と言って笑ったが、事前に顔を知ってしまうと、引き金を引けなくなるのではないかという不安があった。とにかくあの日は、自分が怖がって避けてきたこと全てが裏目に出ていた。また神崎に電話をして指示を仰ぐと、『死体があるんだろ。じゃあ仕事は終わりだ。完了報告しろ』とあっさりした口調で言った。あくまで、人差し指に徹する。銃を構えた先にいる相手を殺すだけの仕事。神崎の理屈なら、そこに違う相手がいたなら、それは段取りをした側のミスだ。その言葉に少し気が楽になり、死体を回収してアルテッツァのトランクに入れた。田邊医院へと運び、処理をお願いしたところでようやく、北河に連絡を入れた。それでも、頭の中には都合の悪い事実だけが残った。
自分で引き金を引いていない以上、わたしは仕事を終えていない。何も考える間がないまま仲介役の殺しは『完了』し、再び神崎と同行することを許された。もちろん北河との付き合いも残り、両方の現場を行き来するようになった。
そして、それから十一年が経った今、杉本はちょうど同じ時期に自分の兄と連絡がつかなくなったと言っている。
果たして、神崎はそんな昔のことを覚えているだろうか。仕事の依頼という形で会うことになっているが、実際に欲しいのは、十一年前の記憶だ。姫浦が喫茶店のドアを開くと、奥のガラス張りになったテーブル席に腰かける神崎が言った。
「久しぶりだな」
「お久しぶりです」
姫浦はそう言うと、神崎と向かい合わせに座った。スーツ姿はこの業界の定番で、出張族のサラリーマンのようにも見える。
「面倒な依頼か?」
神崎はアイスコーヒーをひと口飲むと、姫浦の目をまっすぐ見返した。姫浦はナイフの位置に意識を向けた。
「ある意味、そうです」
間違えたひと言を発したときにどういう反応が返ってくるか、もう分からない。神崎がフリーランスである以上、利害関係が一致している保証はどこにもないのだ。会話が途切れて静かになったとき、神崎は朝日が差している方向へ視線を向けた。
「心配事があるのか?」
「仕事柄、色々と」
姫浦が呟くように答えると、神崎は前に向き直った。
「本当の用事は何だ?」
「十一年前に、仲介役を消す仕事があったのを覚えてますか? わたしは新人だったから、何があったのか教えてもらえなかった。詳しく知りたいんです」
姫浦が言うと、神崎は一度咳ばらいをした。少し通る声で、姫浦の胸元に向けて言った。
「おい、外で待機してる奴。下見は夕方にしたのか?」
太陽の方向が逆だから、影の方向も逆になる。姫浦は、神崎が約束の時間を朝にずらせた理由を悟った。影が店側に伸びて、動きが先に分かるからだ。外で足音が慌ただしく響き、さっき姫浦が通ってきた道を辿るように、杉本が現れた。神崎はその耳に取り付けられたイヤーピースを見て、苦笑いを浮かべた。
「盗み聞きはよくないな。まあ、座れよ」
二〇一二年 三月 ― 十一年前 ―
芳人が部屋の中をうろつくのは、決まって『やべー』ときだ。信博はその様子を見ながら、呆れたように笑った。また伝言ゲームが途中でめちゃくちゃになって、その責任を負わされそうになっているのだろう。今は電子レンジの表示がじりじりとゼロに近づいていて、どちらかというとコンビニで買ってきたパスタの温まり具合の方が重要だ。目の前を数回往復した芳人に、信博は言った。
「兄ちゃん、ウォーキングは外でしなよ」
「ばっか野郎、そんな呑気な話じゃねーんだ」
芳人はスマートフォンを手に持って、電話をすべきかどうか迷っているように見える。相手はひとりしかいない。川添だ。昨日、深夜のファミレスで話したばかり。『お前も十八なんだよなー。しっかりしてきた』と言っていたが、高校生でも大人でも通じる特徴のない体格は、鏡に映しても全く頼りがいがない。
「マジでやべーなら、高飛びする?」
信博が訊くと、芳人は海外ドラマの主人公のように手を広げて、天井を見上げた。
「飛ぶ前に、人間はどうすると思う。助走つけんだろ? その最中に捕まって、飛ぶ前に終わっちまうよ」