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人生×リキュール ノチェロ

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 今更、さぁ・・・二十歳を過ぎて学歴も半端なニートデブ男が、今更世間に出てどうするよ。働くのか? つっても、こんな経歴でどこが雇ってくれんのよ。また比較検討されながら生きる世界に戻るのか? また他人の期待が重力となっている世界で生きるのか? また視線に突き刺されながら生活するのか? 無理だ。無理無理。どう考えても無理だ。今更、オレがこの部屋を出たところで一体なにができると言うのだ。現実のオレは身を守る剣を持っていないし、回復させてくれてバフをかけてくれる頼れるヒーラーだっていない。無理だよ・・・無理なんだよノチェロ。
 その時、パソコン画面にDM通知が表示された。
 けれど、腕に顔を埋めて絶望する彼は気付かない。考え疲れた彼は、突っ伏したまま眠ってしまった。
 彼がそのダイレクトメッセージに気付いたのは、翌日の朝だった。

『突然消えてごめんなさい。
 きっと、あなたは心配していると思う。
 あたし、ほんとは日本人じゃない。
 ウクライナに住んでいて日本のことが好きで日本語を勉強してスラングを覚えた。
 でも戦争が酷くなって、あたしのパパが仕事帰りに殺されて、ロシア兵が家の近くまで来るようになって。
 毎日が怖くてたまらない。あたしも殺されるかもしれない。
 こうして、隠れてメッセージを打っている間にも爆弾が飛び込んできて死ぬかもしれない。
 ハイスクールにも行かずに家に引き蘢っていた罰としてこんなことになっているような気さえする。
 ごめんなさいといくら懺悔しても戦争は終わらない。
 でも、あなたと会えた。感謝してる。
 あなたと会えたことで、夢が見つかった。
 日本に住んでゲームデザイナーになりたい。
 お別れが言えなくてごめんなさい。
 今までありがとう。楽しかった。
 もし、生き延びられたら、夢を叶えるために絶対に日本に行く ノチェロ』

 彼は目を疑った。嘘だろ? いつものスラング調ではない言葉に戸惑っているのもあるが、それより何よりノチェロが日本人ではなく、戦争中のウクライナにいるという事実が落雷のように彼を直撃した。
 なにかの冗談だろ?
 確かにこのゲームは世界中からアクセスできるし、外国人のプレイヤーもよく見かける。彼は英語が苦手ゆえにあまり交流したことはないが、時々参戦してくることもある。それにしても、
 それにしてもだ。
 あまりに非現実過ぎる。
 戦争は現実に起こっていることなのだが、ゲーム世界よりも馴染みがなく未知だ。そこにノチェロがいる?
 ノチェロというハンドルネームのハイスクールに通う年頃の幼気な少女が、無惨に親を惨殺された少女が、銃を持った敵兵や爆弾や戦車から逃げ隠れて泣きながら震えている・・・だと?
 彼は、伸びっ放しになった頭を抱えた。理解が追いつかない。
 ノチェロは自分と似たような環境にいるのだとばかり思っていた。戦争なんて無縁のこの日本のどこかに。
 引き蘢っているのだと。でも、違ったのだ。
 彼女はなうで戦争という現実に向き合わざるおえなくなって、必死に生き延びようとしている。
 ノチェロが!
『人生に飛び出す一本を!』
 彼の脳裏に老人の言葉が鳴り響く。ああ、そうだ。
 オレは、こんなところで、こんなことをしている場合じゃないと彼は立ち上がった。そして、扉を蹴り開ける。
 扉の外は昼間で差込む日差しが廊下にコントラストを作っている初夏の午後だ。
 彼は階下に駆け下りた。
 呆然と口を開けている母親に床屋代を欲求し、同時にボランティア活動をしに海外に行く旨を伝える。
 白髪が目立ち始めた母親は、彼の言いなりに頷くと床屋代をくれた。それを掴んだ彼は家を飛び出し、炎天下の中を床屋まで疾走した。
 熱中症がなんだ!脱水がなんだ!ノチェロのいる環境に比べれば屁みたいなもんだ!オレは、行くぞ!
 髪を刈り上げた彼は、その足でウクライナ現地への派遣ボランティアを募集している団体を訊ねたのだった。
 彼は、ノチェロとのゲームを通して、どの世界でも努力と思いやりが必要だと学んだ。そして、生きていくには、どの世界においても、どうしても理由が必要になってくるのだとも。
 ノチェロと過ごす時間の中でいつのまにか、彼女の存在そのものが、彼にとっての生きていく理由そのものとなっていたのだ。
 彼女がどんな姿であっても構わなかった。彼の姿を知った彼女に嫌われても構わないと思った。
 彼はただ、彼女と彼女が生きる環境が平安であって欲しいと願ったのだ。
 そのために自分ができることを探そうと決意した。

 飛行機が離陸するのを待ちながら、凸ビックリするだろうなぁと浮かび、次いで奇跡的に彼女と再会できたあかつきに一緒に飲もうと持参したトランクに眠るリキュールのことを彼は考えた。
 彼女がミドルネームとして選んだノチェロにはもしかしたら彼女の本命に繋がる糸口が隠れているかもしれない。そんなことを考えながら手を置いた腹周りの贅肉は以前に比べるとだいぶ少なくなっている。
 不意に、PKのフランジェリコが浮かんだ。
 ヤツも外国人なのかもしれない。だとしたら、フランジェリコの野蛮な行為もなんとなく頷けた。
 これって差別か?
 いや、日本人はモラルや集団に縛られるあまり意気地なしで根暗なんだ。それを知ってか知らずか攻撃するフランジェリコ。
 彼はふっと口角を上げた。痛快じゃないか。くだらないチー牛なんて全滅させちまえ。
 オレ、フランジェリコ好きかも。今度もし、ログインする機会があったら探してフレンド申請してみよう。
 そんなことをつらつらと考える彼を乗せた飛行機は、雲一つない真っ青な空に消えていった。


 ※ノチェロ
 イタリア産クルミのリキュールである。製造元は、第二次世界大戦終結の1945年に創業した酒造メーカートスキ社。エミリア・ロマーニャ州ヴィニョーラという小さな街の酒造メーカーだ。黒くつや消しされたぼってりとしたボトルには、赤いシーリングワックス(残念ながら現在流通するボトルにはなくなってしまったようだ)に三角形の木がモチーフになったトスキの刻印。高級感のあるゴールドラベルに、クルミの形を象ったキャップがついている。ノチェとはイタリア語のクルミの意味。中性イタリアでは、女子の誕生と共にクルミの木を植え、結婚する時にその木で作った家具を持たせる風習があったとか。現在でも花嫁を祝福してクルミを投げる風習は続いているらしい。そんなクルミを主原料にしたノチェロは、アルコール度数24度のリキュールだが、クルミの芳醇な香りと僅かな苦味がアクセントとなり、さっぱりとした味わいが楽しめる。同系列のナッツ系リキュールとしてはヘーゼルナッツリキュールのフランジェリコと人気を二分する。