人生×リキュール ノチェロ
クリスマスを終えた数日後の大晦日を迎えるカウントダウンの最中に、ノチェロは忽然と消えてしまったのだ。
折しも冬から勃発したロシアと隣国ウクライナの戦争が悪化の一路を辿り、なかなか終結しそうにはない不安定な世界情勢を抱えての年越しであった。
彼は、来る日も来る日も異世界にノチェロを探し求めた。が、ノチェロの行方は要として知れず、彼女のログが確認できないまま窓の外で鶯が鳴き始めた。
もしかして、彼女の身になにかあったのかもしれないと気付いたのは、ある春の晩。
彼は例の如く夜中の買い物に出ていた。
パーカーのフードを被り、両手をポケットに突っ込んだ彼に桜の花びらが散り掛かってきた。それを見上げていた彼の脳裏に豆電球を点ける具合に浮かんだのは、ノチェロは現実世界と折り合いをつけられたのではないかということだった。だから、引き蘢る理由がなくなったのではないだろうか。いや、まさか。
でも、オレは現実世界でのノチェロのことはなにも知らない。
オレは敢えて聞かなかったし、彼女から打ち明けてくることもなかった。ノチェロとの付き合いは三年ほどに及ぶ。その間、変わったことはなかった。オレと同じ。だから、勝手に自分と同じ状況なのだと思っていた。なにも根拠がないのに、思い込んで、思い込もうとしていたんだ。だけど、それが全て勘違いだったとしたら?
彼女はとっくに現実世界との和解して、二次元を卒業していたとしたなら?
それなら、この不在も説明がついてしまう。
どす黒い色の感情が彼の中に渦巻き始めた。
裏切りという言葉が浮上し、祝福という言葉に引き摺り下ろされた。彼女の幸せを願う気持ちが沸いたと思うと、独りぼっちで置いて行かれた怒りと悲しさが被さった。
彼女は、オレの唯一の心のよりどころだったんだ。オレは彼女が、好きだった・・・のに。
どこにも打っ付けようがない憤りが込み上げてきて、彼はポケットの中で拳を握りしめる。不安が広がり始めたのだ。
なにも唐突に行方をくらまさなくったっていいじゃないか。なにか言ってくれたっていいじゃないか。あんなに信頼しあったパートナーだったのに。まるで、全てが嘘だったかのような虚脱感が彼を襲う。
オレは、オレは、オレは・・・!拳で太腿を叩いて、声にならない叫びを上げる。
そんな彼を、街灯に照らされた灯りの中からじっと見つめていた者があった。
「悲しいのかい?」
顔を上げた彼が見たのは、車イスの老人。と思しき人影だった。
言い切れる自信がなかったのは、スポットライトのように当たっている街灯のお陰で、老人の顔は目の上と鼻とほお骨以外が闇に沈んでいる状態だったからだ。よく言えば、舞台上で役者が独白でもする目玉シーン。悪く言えば得体の知れない化物でも現れたようなホラーシーン。こちらに向けている目だけが街灯を反射してビー玉のように光っているから余計だ。更には、こんな夜更け。早寝早起きの年寄りがうろついているはずもない。彼の背中を悪寒が走った。
「誰だよ、あんた」
握る拳がじっとりと汗ばんでくる。老人は車イスを操って、少しずつ彼に近付いてきた。
「悲しいのかい?」再度問い掛けてくる。
「あんたには関係ないだろ!」思わず語気が荒くなる。強がってはいるが幽霊や妖怪などオカルトの類いは苦手だ。文化祭ではクラスの出し物だった手作りのお化け屋敷にすら入れず、それがバレないように呼び込みに徹底していたくらいだ。後退る彼を追い詰めるようにして、ジリジリと得体の知れない老人が迫ってきた。
「やめろよ!来るな!悪かったよ、オレが悪かったから!」
彼は震える唇を動かすが、ほとんど言葉になっていない。すると、彼の直前で老人が前進を止めた。それから、緩慢な動きで体を捻ってなにかを探っている。
「人生に飛び出す一本を!」
唐突に黒いなにかが突きつけられた。仰天した彼は尻餅をついて目を瞑った。攻撃されると思ったのだ。今の自分は、剣も回復薬も持っていない三次元の弱っちい自分。いくら車イスに乗った年寄りだからと言っても、この世界の人間はわからない。もしかしたら、年寄りに化けている殺人者かもしれないし。どのみち殴られでもされたら、ラードの塊と化している自分はひとたまりもないだろう。・・終わりだ!もうダメだ!こんな思わぬ所で、こんなにあっけなくオレの人生は幕を閉じるのか!こんなことなら、もっと・・・
「人生に飛び出す一本を!」再度、老人の声が聞こえて、彼は怖々目を開けた。
彼の視界を丸みを帯びた黒いボトルが遮っている。それを両側から掴んで顔から離して見ると、ゴールドラベルに『ノチェロ』と読めた。ノチェロ・・・だと?
どういうことかと彷徨う彼の視線はけれど、そこにいるはずの老人を捉えることはできなかった。老人は闇に溶けてしまったかのように消え失せていた。
「・・・え?」狐にでも摘まれたような気分だった。だが、両手には酒のボトルがしっかりと握られている。彼はそのままの恰好でしばらく踞っていたが、不快な濡れを股間に感じたので立ち上がった。
今夜の買い出しは中止だ。彼はジャージの前を気にしいしい帰路についた。
それからと言うもの、不思議な老人からもらったその『ノチェロ』という名がついた酒瓶を眺める日々が続いた。
『ノチェロ』という名の女性が消えて、『ノチェロ』という名の酒が現れた。偶然にしてはでき過ぎている。
これはなにかの啓示なのか? なにかが隠されていると言う事なのか? あの老人はそもそも何者なんだ?
考えれば考えるほど謎は深まるばかり。ネット上でいくら検索をかけても、ヒットする項目はゼロだ。わかったのは、『ノチェロ』とはイタリア産のクルミのリキュールだということ。だからどうした。なんの手がかりにもならない。
いや、そもそもこんなことを考えるだけ無駄なんじゃないだろうか。そもそも、この酒は彼女とはなんの関係もないんじゃないだろうか? そうだよな。そうだ、きっと、そうだ。だって、おかしいじゃないか。あんなどこの誰とも知らないジイさんが、いきなり彼女と同じ酒をくれてきたなんて。単なる偶然だ。彼女とはなんの関係もないに決まってる。そうだよ。そうに決まってるよ。バカバカしい。彼女が現実世界に立ち戻ったとしたのならさ、オレがいくら苦悩してても意味なんてないんだ。だって、
彼女はオレを見捨てたんだから・・・女々しいな。我ながら情けなかったが止められなかった。
あー苛々する!沸騰した頭を搔き毟った彼はクーラーのボタンを押す。
夏が近付いているのを感じる。オレは今年の夏もこのまま現状維持なのかなぁ。ノチェロがいなくなったとはいえ、引き蘢りを解除するのに己を納得させられるだけの理由にはならなかったのだ。
作品名:人生×リキュール ノチェロ 作家名:ぬゑ