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孤独という頂点

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 読者諸君は、昭和五十年代末期に起こった、
「グリコ森永事件」
 というものをご存じであろうか?
 江崎グリコ社長の誘拐事件に端を発し、複数の菓子メーカーに対し、
「お前の会社の製品に青酸カリを混入した」
 と言って脅迫し、実際に、店頭で青酸カリ入りの菓子が見つかったりして、大いなる社会不安に叩き落された。
 菓子メーカーへの脅迫だけではなく、社会全体に不安をもたらしたという意味で、センセーショナルな事件であった、犯人たちの通称、
「怪人二十一面相」
 なる連中は、結果時効となり、犯行理由も、何もかもが闇に葬られた結果になった。
 その影響として残っていたのが、
「菓子などの上からの透明ラッピング」
 という措置だったのだ。
 グリコ森永事件の場合は、犯人も捕まっておらず、
「迷宮入り」
 ということになったが、
「地下鉄サリン事件」
 においては、ある程度の目的なども分かっているということである。
 そもそも、その首謀者であった宗教団体における教祖となった男は、政府や国民に不満を持っていたという。
 子供の頃から、
「中心にいないと我慢ができない」
 というような性格だったらしく、子供の頃から学級委員に立候補しては、落選を続けていたという。
 彼が宗教団体を設立して、教祖となり、教えを信者に説いていたようだが、そのやり方が少々やりすぎといえる部分もあり、
「教祖を神のごとく贖う人もいるにも関わらず、世間からは全く受けられないという側面を持った人物」
 ということで、どちらが本当なのか、分からない信者もいたに違いない。
 しかし、やつらは、教団の行き過ぎた行為から、しばしば、近隣住民と問題を起こしており、裁判沙汰になったことで、捜査をかく乱させようと、長野県の松本で、最初のサリンを使用した。
 さらに、サリン製造強情とされている教団の施設から異臭がしたということで、警察の強制捜査が免れないと分かったことで、焦った教団は、
「警察による捜査のかく乱、そして、昔年の個人的な恨みを晴らすための、国家転覆を目指した犯行」
 に至ったのである。
 この事件は、完全に自分の保身と、それまでに鬱積した世間に対する個人的な恨みという、陳腐な動機に対して、数多くの人が犠牲になり、さらに、幹部も殺害されるという悲惨なことになったのだ。
 本当の理由までは、本人が黙して語らずだったこともあって、解明されていないが、いかに問題だったのかということは、アメリカで起こったビルへの航空機による激突という大惨事を引き起こした自爆テロよりも五年以上も前に起こったことであるということと、何よりも、その理由が、個人的なものだということを考えれば、どれだけセンセーショナルなものであったのかということが言えるであろう。
 ただ、これを、そこで話を止めてしまってもいいのだろうか?
 そのような恐ろしい人物を作り上げたのは、当時の社会情勢だったと言えるのではないだろうか?
 確かに、個人的な恨みや事情で引き起こすにはあまりにも悲惨な事件であったが、その根っこにある問題に蓋をしてしまっていいのかどうか、そこも問題である。
 今ではその教祖の心理的な部分を書き残したものはほとんど見たことはないが、誰かが研究したのだろうか?
 もしかすると、その内容は、
「公表するには、あまりにも問題がありすぎる」
 ということで、報道規制が敷かれているのだとすれば、これもよほどのことである。
 これを公表すると、国家体制に支障をきたすようなことであるので、報道規制をしているのだとすれば、それはまるで、
「大日本帝国大本営における、、報道規制なみ」
 と言えるのではないだろうか。
 ミッドウェイの敗戦をひた隠しにしたくて、生存者をどこかの島に隔離して、表に出さないようにした国家ぐるみの隠ぺい工作、
「大本営発表は嘘ばかり」
 と言われているが、報道規制というだけではなく、そのためには、必ず、多くの人の人生を台無しにするほどの問題が潜んでいる。
 中には、謂われもなく殺された人もいたかも知れない。それほど、国家主義、全体主義の恐ろしさが垣間見ることのできる時代だったと言えるだろう。
 確かに、公共で発表すればパニックになってしまう可能性があるので、発表できないこともあるだろう。しかし、それが政府の保身のためだとするならば、自分の保身のために事件を起こしたこの教祖とどこが違うというのか。そういう意味では、隠蔽に加担させられたことで自らの命を断った人がいるのに、
「死人に口なし」
 とばかり、
「事件は終わった」
 として、まったくの説明責任を放棄した元首相も同罪ではないだろうか。
 令和三年十月時点でもまだ問題視されているが、この作品を公開した時点でどうなっているか、実に楽しみなものである。なんといっても、自分の守護神である検察官を延命させるため、定年の規定の法改正まで行おうとして、当の本人が賭けマージャンで失脚するという大茶番劇というか、開いた口が塞がらない事件を引き起こした、
「日本という国も落ちるところまで落ちた」
 そんな状況を象徴している人物だということだ。
 それはさておき、昭和から平成前半にかけての事件は、のちの時代までその禍根を残すことになったのも事実であり、ただ、事件の背景には、微妙に時代の問題点がはらんでいるのも事実ではなかっただろうか。
 特に宗教が絡んでいた時代ともなると、その時代背景に、不況であったり、当時の社会問題としてあった、
「いじめの問題」
 などが、まったく関係ないとは言えないのではないだろうか。
 しかも、宗教団体が絡んでいるということは、それだけ、信者もいるということで、今でも、その教祖の教えを信じている人もいるという。
 その教祖が二重人格であり、洗脳にたけているからなのか、それとも、人間というものが多種多様であり、教祖を信じる人間もいれば、恐ろしくて近寄らない人もいるということなのだろうか。
 きっと、その両方が微妙に絡み合って、教祖の人格を形成しているのかも知れない。
 熱烈な信者には、輝いて見えていて、毛嫌いしている人間には、毛嫌いする部分しか見えず、その本質が見えていないだけではないだろうか。
 もし、これが教祖の計算による洗脳という能力だとするならば、恐ろしいというべきなのか、それとも、やりようによっては、本当に素晴らしい人物になりえることができたのかと思うと、何とも言えない苦み走った表情にさせられるような気がするのだった。
 ただ、
「こういう恐ろしい人物が引き起こした事件である」
 ということで終わらせてしまってもいいのだろうか?
 事件の全貌を解明しようというのは確かに大切なことだ。被害者がいる以上、責任の所在をハッキリさせることで保証の問題を解決させることと、首謀者や実行犯の罪の大きさを正確に判断し、制裁することも大切であろう。
 しかし、事件の根底にあるものは、この事件の目的である、私恨から来ているものだとするならば、私恨を作り出したその人間の本質に迫り、さらに、そんな人間がどうしてこの世に生まれなければいけなかったのかということをしっかりと検証しないと、
「第二、第三の私恨によるテロ事件」
作品名:孤独という頂点 作家名:森本晃次