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人生×リキュール ディタ

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「綿花さん、ほんとに苦労したんだねぇ」誰かがしみじみと溜め息をついた。
「そんな綿花さんの大切にしていた物って、一体なんだったんだろう?」


 アパートの近隣住人は噂好きな主婦ばかりだ。
「そう言えば聞いた? あのアパートの」と、一人の主婦がそれまで盛り上がっていた子ども達のお受験の話題をさりげなく切り替えた。彼女の息子は有名私立学校にはとても合格できそうにない成績だったのだが、それをひた隠しにしていたので、学校だの塾だのの情報交換が苦痛で仕方なかったのだ。
「あのオンボロアパートに住んでるおばあちゃん。あの、カリフラワーみたいな頭の。そう。その人」ああ知ってる知ってる、いつも見かけるたびに毛量が多くて羨ましいなって思ってたのと片方が恥ずかしそうに口を隠す。アレ天パなのかしらと。思惑通り、他の二人がすぐに食いついてきたので、お受験の話題を回避することに成功した彼女は頭の中でガッツポーズする自分を浮かべた。
「バカね。天パなわけないでしょ。美容室でパーマかけてるのよ。うちの子の送り迎えの時に、よく美容室でパーマかけてる姿を見かけるもの」身綺麗にしてるのねぇ私達も見習わなきゃねぇーと話がまとまりそうな雰囲気だったが、どちらかと言えば気の強い仕切り屋タイプの片方が、で、その人がどうかしたの? と彼女に振り向いた。 
「あのおばあちゃん、通りすがりに目が合うと笑って会釈してくるおとなしそーな人でしょ? でもね、あたしこの間、見ちゃったの。あのおばあちゃんが、女の人をもの凄い剣幕で怒ってるのを」うっそやだ、ほんと? と片方が不安げに眉間に皺を寄せる。なにがあったのかしら? と仕切り屋が首を傾げた。
「わからないけど、ただ、もの凄い形相だったわ。オニババって表現がピッタリって感じの。まぁ見てないと、全然想像できないでしょうけどね」と肩を竦ます彼女に怪訝そうな視線を送っていた一人が少しして口を開いた。
「でもそれ、どこで見たの? きっと、外ではないんでしょうね。あなたが言うように尋常ではない様子なら近隣住民が放っておかないと思うの。まさか、アパートの窓から覗いたなんて下卑たことではないわよねぇ?」仕切り屋に強い口調で念押しされて、彼女はまさかぁーと不意打ちを食らった動揺から引き攣った笑みを浮かべた。ミスチョイスの話題だったかもしれないと今更ながら後悔が押し寄せてくる。あのオンボロアパートには、実は自分の浮気相手でもある年若い大学生が住んでいて、彼の部屋で逢引をした帰りにアパートの廊下で見た光景だなんて口が避けても言える訳がない。
「偶然、通りかかったのよ。そしたらアパートの前で、だったかしら? 大声だったから、つい目がいっちゃったわ」へぇーそんなに目立ってたのねぇーと事情を知らない二人をなんとか誤摩化せそうな気配だ。後一押しと思った彼女は、顔を見合わせ合っている二人より先に結論を口に出した。
「なんにせよ、子ども達には、もうあのアパートには近付かないようにキツく言っとかないとね」
 すぐに片方が確かにそうねと同意する。仕切り屋は腕を組んでなにかを考え込んでいたが暫くして口を開いた。
「そうしたほうがいいかもね。あのおばあちゃん優しいから、子ども達がやたらと懐いてるし」子どもの心配事になれば主婦は途端に目の色を変える。主婦にとって子どもの育成と見守りは仕事を通り越して使命だからだ。転ばぬ先の杖ではないが、子どもの行動の先回りや起こりうる予測をつけて予め危険を回避しておくのは基本だ。
「わかるわかる。なにかあってからじゃ遅いもんね」そうそうと他の二人が神妙に頷いた。
「それにしても、やっぱり人は見かけに寄らないもんねー」子ども達のためにあたし達が用心しなきゃいけないわねと主婦達は締めくくった。


「お、名物ばあちゃんの今日の話し相手がようやくご帰館したな」どうだった? と、前のめり気味に話す上司が、さっきまで役所のロビーで老婆の相手をしていた新入り男子に声をかけてきた。
 やることもなく、ただ席に座っていたら、ねぇちょっとちょっとと可愛らしい笑顔の老婆に手招きされたのだ。とりあえず用件だけを聞いて他の職員に回そうと思って近付いてみたところ、そのまま一時間ほどおしゃべりに付き合わされる形となった。と言っても、彼は一方的に話す老婆に適当な相づちを打っていただけなのだが。それが、いつか先輩が言っていた名物老婆だと気付いたのは、じゃあまたねぇと彼女が帰ってからだった。
「どうって・・・特には。ずっとライチの話をしてました」新人は表情のない顔にかけた眼鏡を押上げながら答えた。
「ライチぃ? って果物のライチのことか?」素っ頓狂な声を出した上司に、ええ恐らくと冷静に返す眼鏡男子。
「入れ歯がズレてしまうらしく、とても聞きづらかったので、ニュアンスぐらいしかわかりませんでしたが」
「小一時間もライチのことを語ってるなんて、よっぽどなにか強い思い入れでもあるんだろうな」
「あと・・・飲みに誘われました」うっそ、私そんなこと言われたことないんですけどぉーと近くにいた中年の女性職員が口を尖らせる。それを、まぁまぁと手で制しながら上司は苦笑いを浮かべた。
「あのばあちゃんも、その他大勢の老婆の例に漏れず若い男が好きなんだな。きっと。良かったじゃないか」と肩を叩かれた彼は、はぁ良かったんですかねと曖昧な笑みを一瞬浮かべただけだった。
「あのばあちゃんはな、ああ見えて、若い頃に満洲に渡ったっていう経歴の持ち主でな、日本史の生き証人なんだ。九十代が少なくなってる今の時代では希有な存在なんよ、実はな。ライチも満洲絡みかもなぁ。もしかしたら」早口に捲し立てる上司のテンポについていくので精一杯の新人男子は、やっぱりそのくらいの歳なんだと納得し、次いで、上司をしげしげ眺めながら、この人カップラーメンとか三分前に剥がすんだろうなと思った。
「すっかりうちの名物ばあちゃんだけど、歳が歳だけに、そうしていられる時間もあと僅かかもしれんしな。今からばあちゃんそっくりの銅像でも作って、ばあちゃんが座ってるところに設置しとくかー」縁起でもないこと言わないでください!と偶然通りかかった福祉課のつり上がり眉の女性職員に窘められてしまった。
「桜が咲く時期には、ばあちゃんが座ってるポイントがまた、絵になるんだからいいじゃないかよー」
「そのソメイヨシノが咲いたら」花見でもしないかってと付け加える彼を遮った上司は、飲む時は教えてくれよと口早に言って窓口対応に向かった。窓口にはいつのまにか眉間に皺を寄せた人々で混雑している。けれど、入職したばかりの彼にできる事は少ない。忙しく対応に走り回る他の職員を横目に席に着きながら、でもオレ飲めないんだよねと彼は小さく呟いた。


 一日の業務を終え、介護事業所に戻ったヘルパー達がパソコンと睨めっこをしながら介護記録を作成している。定時が迫っていた。どの顔も早く済ませて帰りたい一心なので、キータッチ音以外は一言も発しない。その鬼気迫る沈黙が破られたのは引っ詰め髪のヘルパーのそういえばという呟きだった。
作品名:人生×リキュール ディタ 作家名:ぬゑ