人生×リキュール ディタ
学校のチャイムを思わせる間延びした音が鳴り響く。役所の昼休みの合図だ。
役所の玄関へ向かうのは外食する者、近くの公園で弁当を広げる者、コンビニに買いに行く者様々である。けれど、玄関から出てまず目にするものは同じだ。
「おばあちゃん、またいるよ」
誰の頭にも同様の台詞が浮かんでしまうくらい、その老婆は役所玄関正面に陣取る常連だった。
役所のシンボルにもなっているソメイヨシノの老木を囲うブロックにちょこんと腰を下ろした老婆は、背中が丸く曲がり、白くフワフワの毛糸ケープを身に纏っているので羊を思わせる。
ケープとお揃いのフワフワ白髪に縁取られた余分な肉の刮げ落ちた小さな顔を覆う薄い皮膚に入った鼻の穴以外の切れ込みを塞ぎ、こっくりこっくりうたた寝をしている小動物的な様は、彼女を目にした者全ての視線を止めてしまう可愛らしさがあった。思わず親切心に駆られた何人かが吸い寄せられるように近付いて「おばあちゃん、お昼になりましたよ」と老婆の肩に優しく触れる。彼女は夢のような速度で瞼を開けると、色素が薄くなり始めた丸い目で相手を見上げるとあらあらと恥ずかしそうに笑むのだった。
どこの役所でも、小規模な医療施設同様に、対した用はないが頻繁に出没する名物老人が多かれ少なかれいるものだが、彼女もその一人。独りぼっちで、家にいるのが寂しいので、誰かとおしゃべりしたくてつい来てしまう。
病院や接骨院にも行くが、不調や痛みがないと行けないので、比較的親切な職員が大勢いる役所に足が向いてしまう。ここなら、お金を払わなくても痛いところがなくても、誰かしらは相手をしてくれるから。もちろん、用があればそれを口実にして長く相手を引き止めておけるかもしれない。彼女はとにかく会話に飢えていた。
「おばあちゃん、悪い人じゃないんだけどねぇ」
四十路に足を突っ込んでしまった先輩が手作り弁当を広げながら、コンビニのパンの袋を破く眼鏡をかけた新入り男子に名物老婆のことを簡単に説明する。
「育ちがいいのね。きっと。言葉も人当たりもとっても柔らかいのよ。でもね、忙しい時には正直勘弁して欲しいって思っちゃうのよねぇ」うんざりと溜め息をつきながら、不細工な卵焼きを口に運ぶ。
ああ確かに先輩は、忙しい時には殺気立っているから自分でも近付きたくないもんなと新人男子は眼鏡を押上げながら内心思うが口には出さずに黙々とパンを齧る。
「高齢者には親切にしなきゃいけないって頭ではわかってるんだけど、こう頻繁に、毎回似たような会話が繰り返されると、ああまたかってうんざりするし、いい加減に煩わしくもなるのよ」後半は先輩の単なる愚痴だった。
「大変っすね」パンを食べ終わった眼鏡男子はそう言うしかなかった。
「あのおばあちゃん、話を聞いてくれそうな人を見つけるのが得意だから、君、気をつけた方がいいよ」入ったばっかで、まだ任せられる業務が少ないから座ってるだけの時間多いでしょと後輩に同意を求めてきた。そういうことなら先輩はなにもやってない人だと見られているってことか新人男子は内心首を捻るが、はぁと適当な返答で濁した。ふと、売れ残った女の先輩ってめんどくせ、と思った。
「ねぇねぇ、綿花さんのこと聞いたぁ?」
訪問介護派遣事業所内でのケアカンファレンス終了後、肩を回して伸びをするヘルパーが初めに口火を切った。
「綿花って・・・あだ名が適切過ぎて笑うから」吹き出したヘルパーの隣で、わかりやすっと笑い声が上がる。
彼女達の話題になっているのは例のフワフワ白髪頭の老婆である。一人暮らしの老婆は、週に何度か訪問介護と訪問入浴を頼んでいた。気だてもよく大人しく扱いやすい高齢者なので、ヘルパーからの人気が高かった。
「ホラこの間、月曜日の担当者が急に病欠したじゃない? あの時、うちも人手が足りなくて、仕方なしにお局が代わりに行ったらしいんだけどー」マジ? お局がヘルパーとしてまだ稼働できるってことに驚きなんですけどっと素早くちゃちゃが入る。憎たらしい輩の鬱憤の捌け口を見つけたなら即利用は当たり前。
お局と呼ばれる中年女性は、丸々と肥え太っており動くのもやっとという恰好なのだ。お局と呼ばれるだけあって、性格は神経質で皮肉っぽく、歯に衣着せぬ発言は新人のみならずベテランに対しても容赦がない。
本人は風邪をこじらせたため本日は欠席しているので、日頃から嫌味を言われているヘルパー達はここぞとばかりに言いたい放題だった。無理無理、自分の介護で精一杯でしょーとどっと笑い声が起こる。発言者も腹を抑えながら話を続けた。
「綿花さんが、怒ったんだって」え、お局なにした? 綿花さん怒るってよっぽどじゃね? 動揺が広がった。
「私も詳しくはわからないんだけど、どうやらお局が、綿花さんが大事にしてたものを勝手に捨てちゃったらしいのよ。それで、綿花さんが激怒しちゃって」でも、捨ててもまた拾えばよくない? と疑問の声が上がる。
「それが、物がなんだかわからないんだけど、ゴミ収集に出したか、壊しちゃったかしたみたいで・・・」ヤバっ!と声が上がって、有り得ないんだけどと誰かが呟くと、先程までの姦しさはどこへやら沈黙が降りてきた。誰もが性悪のお局の手に寄って大切にしていた物を葬られた可哀想な綿花さんに同情を禁じ得なかった。
「綿花さん、何度も何度も事業所に電話かけてきて、終いには涙声で、ほんと可哀想だった。弁償するって言っても、滅多に代替え品なんてないじゃない? 特に綿花さんは九十五歳だから大昔のものだってこともあるしさ。ホラ、大正、昭和、平成、令和って四つの時代を生きてきてるから。弁償なんてできるわけないよ。さすがのお局も謝罪してたけど、あのふてぶてしい顔は、きっと反省なんてしてないね。その事件以降、綿花さん元気ないんだよ」綿花さん可哀想と蚊の鳴くような声で誰かが言って、だからなのかぁと誰かが寂しそうに納得した。
「綿花さんって、数年前に一人息子さん亡くしてるよね。確かお嫁さんが気が強くて、綿花さんに辛く当たるからって同居解消しちゃったんだよね。その時に、特養とかには絶対に入りたくないからって息子に初めて駄々捏ねたって本人から聞いたことある」だね、だねと頷き合う。
「でも、今となっては有料とか特養に入った方が良かったんじゃないかなぁって、よく思う。だって、息子さん亡くなってからずっと、綿花さん寂しそうなんだよね」わかるーと声が上がる。
「だから、あたし達が行かない日は役所とかに行ってるのかな? この間、用事があって役所に行った時に、玄関の桜の木の下に綿花さんが置物みたいに座って居眠りしててビックリしたのよー」
「アレ、てか綿花さんの旦那さんってどうしたんだっけ?」この問いには首を横に振る者の方が多かった。
「私、前にちょっとだけ聞いたことある。確か、旦那さんは満鉄の職員だったって言ってた。それで、終戦後に満洲から引き上げてくる時にロシア兵に殺されたって・・」
カンフェレンスルームは水を打ったように静まり返った。誰もが小さな老婆に壮大な歴史を感じていたのだ。満洲鉄道に満洲引き上げなんて第二次世界大戦同様に歴史の教科書でちょっぴり齧った程度の知識しかない。
役所の玄関へ向かうのは外食する者、近くの公園で弁当を広げる者、コンビニに買いに行く者様々である。けれど、玄関から出てまず目にするものは同じだ。
「おばあちゃん、またいるよ」
誰の頭にも同様の台詞が浮かんでしまうくらい、その老婆は役所玄関正面に陣取る常連だった。
役所のシンボルにもなっているソメイヨシノの老木を囲うブロックにちょこんと腰を下ろした老婆は、背中が丸く曲がり、白くフワフワの毛糸ケープを身に纏っているので羊を思わせる。
ケープとお揃いのフワフワ白髪に縁取られた余分な肉の刮げ落ちた小さな顔を覆う薄い皮膚に入った鼻の穴以外の切れ込みを塞ぎ、こっくりこっくりうたた寝をしている小動物的な様は、彼女を目にした者全ての視線を止めてしまう可愛らしさがあった。思わず親切心に駆られた何人かが吸い寄せられるように近付いて「おばあちゃん、お昼になりましたよ」と老婆の肩に優しく触れる。彼女は夢のような速度で瞼を開けると、色素が薄くなり始めた丸い目で相手を見上げるとあらあらと恥ずかしそうに笑むのだった。
どこの役所でも、小規模な医療施設同様に、対した用はないが頻繁に出没する名物老人が多かれ少なかれいるものだが、彼女もその一人。独りぼっちで、家にいるのが寂しいので、誰かとおしゃべりしたくてつい来てしまう。
病院や接骨院にも行くが、不調や痛みがないと行けないので、比較的親切な職員が大勢いる役所に足が向いてしまう。ここなら、お金を払わなくても痛いところがなくても、誰かしらは相手をしてくれるから。もちろん、用があればそれを口実にして長く相手を引き止めておけるかもしれない。彼女はとにかく会話に飢えていた。
「おばあちゃん、悪い人じゃないんだけどねぇ」
四十路に足を突っ込んでしまった先輩が手作り弁当を広げながら、コンビニのパンの袋を破く眼鏡をかけた新入り男子に名物老婆のことを簡単に説明する。
「育ちがいいのね。きっと。言葉も人当たりもとっても柔らかいのよ。でもね、忙しい時には正直勘弁して欲しいって思っちゃうのよねぇ」うんざりと溜め息をつきながら、不細工な卵焼きを口に運ぶ。
ああ確かに先輩は、忙しい時には殺気立っているから自分でも近付きたくないもんなと新人男子は眼鏡を押上げながら内心思うが口には出さずに黙々とパンを齧る。
「高齢者には親切にしなきゃいけないって頭ではわかってるんだけど、こう頻繁に、毎回似たような会話が繰り返されると、ああまたかってうんざりするし、いい加減に煩わしくもなるのよ」後半は先輩の単なる愚痴だった。
「大変っすね」パンを食べ終わった眼鏡男子はそう言うしかなかった。
「あのおばあちゃん、話を聞いてくれそうな人を見つけるのが得意だから、君、気をつけた方がいいよ」入ったばっかで、まだ任せられる業務が少ないから座ってるだけの時間多いでしょと後輩に同意を求めてきた。そういうことなら先輩はなにもやってない人だと見られているってことか新人男子は内心首を捻るが、はぁと適当な返答で濁した。ふと、売れ残った女の先輩ってめんどくせ、と思った。
「ねぇねぇ、綿花さんのこと聞いたぁ?」
訪問介護派遣事業所内でのケアカンファレンス終了後、肩を回して伸びをするヘルパーが初めに口火を切った。
「綿花って・・・あだ名が適切過ぎて笑うから」吹き出したヘルパーの隣で、わかりやすっと笑い声が上がる。
彼女達の話題になっているのは例のフワフワ白髪頭の老婆である。一人暮らしの老婆は、週に何度か訪問介護と訪問入浴を頼んでいた。気だてもよく大人しく扱いやすい高齢者なので、ヘルパーからの人気が高かった。
「ホラこの間、月曜日の担当者が急に病欠したじゃない? あの時、うちも人手が足りなくて、仕方なしにお局が代わりに行ったらしいんだけどー」マジ? お局がヘルパーとしてまだ稼働できるってことに驚きなんですけどっと素早くちゃちゃが入る。憎たらしい輩の鬱憤の捌け口を見つけたなら即利用は当たり前。
お局と呼ばれる中年女性は、丸々と肥え太っており動くのもやっとという恰好なのだ。お局と呼ばれるだけあって、性格は神経質で皮肉っぽく、歯に衣着せぬ発言は新人のみならずベテランに対しても容赦がない。
本人は風邪をこじらせたため本日は欠席しているので、日頃から嫌味を言われているヘルパー達はここぞとばかりに言いたい放題だった。無理無理、自分の介護で精一杯でしょーとどっと笑い声が起こる。発言者も腹を抑えながら話を続けた。
「綿花さんが、怒ったんだって」え、お局なにした? 綿花さん怒るってよっぽどじゃね? 動揺が広がった。
「私も詳しくはわからないんだけど、どうやらお局が、綿花さんが大事にしてたものを勝手に捨てちゃったらしいのよ。それで、綿花さんが激怒しちゃって」でも、捨ててもまた拾えばよくない? と疑問の声が上がる。
「それが、物がなんだかわからないんだけど、ゴミ収集に出したか、壊しちゃったかしたみたいで・・・」ヤバっ!と声が上がって、有り得ないんだけどと誰かが呟くと、先程までの姦しさはどこへやら沈黙が降りてきた。誰もが性悪のお局の手に寄って大切にしていた物を葬られた可哀想な綿花さんに同情を禁じ得なかった。
「綿花さん、何度も何度も事業所に電話かけてきて、終いには涙声で、ほんと可哀想だった。弁償するって言っても、滅多に代替え品なんてないじゃない? 特に綿花さんは九十五歳だから大昔のものだってこともあるしさ。ホラ、大正、昭和、平成、令和って四つの時代を生きてきてるから。弁償なんてできるわけないよ。さすがのお局も謝罪してたけど、あのふてぶてしい顔は、きっと反省なんてしてないね。その事件以降、綿花さん元気ないんだよ」綿花さん可哀想と蚊の鳴くような声で誰かが言って、だからなのかぁと誰かが寂しそうに納得した。
「綿花さんって、数年前に一人息子さん亡くしてるよね。確かお嫁さんが気が強くて、綿花さんに辛く当たるからって同居解消しちゃったんだよね。その時に、特養とかには絶対に入りたくないからって息子に初めて駄々捏ねたって本人から聞いたことある」だね、だねと頷き合う。
「でも、今となっては有料とか特養に入った方が良かったんじゃないかなぁって、よく思う。だって、息子さん亡くなってからずっと、綿花さん寂しそうなんだよね」わかるーと声が上がる。
「だから、あたし達が行かない日は役所とかに行ってるのかな? この間、用事があって役所に行った時に、玄関の桜の木の下に綿花さんが置物みたいに座って居眠りしててビックリしたのよー」
「アレ、てか綿花さんの旦那さんってどうしたんだっけ?」この問いには首を横に振る者の方が多かった。
「私、前にちょっとだけ聞いたことある。確か、旦那さんは満鉄の職員だったって言ってた。それで、終戦後に満洲から引き上げてくる時にロシア兵に殺されたって・・」
カンフェレンスルームは水を打ったように静まり返った。誰もが小さな老婆に壮大な歴史を感じていたのだ。満洲鉄道に満洲引き上げなんて第二次世界大戦同様に歴史の教科書でちょっぴり齧った程度の知識しかない。
作品名:人生×リキュール ディタ 作家名:ぬゑ