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人生×リキュール パッソア

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「弱虫でもいいさ。最優先は現状維持だ」砂利が敷かれた通路を、ざっざと規則正しい音をたてて近付いてくる二つの革靴。
「なにを眠たいことを言ってるんだよ。やるなら今しかないんだぞ」
「・・・少し、考えさせてくれないか」思案げな靴音が彼の横を通過していく。クラップみたいだと思った。
「だが、あまり時間はないぞ」
「わかっている。パッソア」神妙な声と共に二つのクラップ音は通用口に消えた。
 言葉のイントネーションや話し方は完全に日本語だったが、妙な名前で呼んだなと少し引っ掛かったが、看板屋のトラックが入ってきたので、思考の中断を余儀なくされた。

 不採用は、続くと、自分のこれまでの人生や人格まで否定されているような気になってくるものだ。
 最初のうちは、縁がなかったと割り切れるが、当たり前のように続くと、前向きには考えられなくなってくる。
 ああ、またダメだった。
 ここもダメだった。
 あそこもダメだった。
 またダメだった。
 まただ。
 まただ。
 また、また、また、またまたまたまた・・・・
 この連続でメンタルを抉り取っていく。不採用通知を受ける度、採用連絡がない度に、社会に不要な人間だという烙印を押されるような心持ちがしてくる。そのうち、求人情報を見ることにすら吐気が襲ってくる。
 彼は特にそれが顕著だった。彼の性格に難があるわけでも学歴に問題があるわけでも、パソコンスキルがない訳でもない。原因は、一重に以前勤めていた職場だった。
 彼は、某有名大学卒業後から四十過ぎまで、ある宗教団体で働いていた経歴を持っていた。
 その宗教団体は、大学時代にサークルの先輩に誘われて入会した。サークルは登山部だ。
 聡明で優しく男勝りの憧れていた美人の先輩はどんな要素で構成されているのか興味があったので、つい友人数名でフラフラついていってしまった。そこで、先輩は二世なのだと知る。
 自動的に洗礼を受けさせられ、安っぽい数珠と怒り狂うMマウスのような絵が描かれた薄っぺらい小さな冊子をもらった。
 友人の何人かは逃げ出したが、逃げ出す要素の見当たらなかった彼はなんとなく残った。憧れの先輩が手を握ってくれたからだ。ね、と発した艶やかな唇から、接近してきた長いまつ毛から、彼女が纏う麝香のような匂いから彼の理性は逃げられなかった。その日から、信者となる。
 宗教に偏見を持っていたが、怒れるMマウスへの偶像崇拝以外は、嫌なこともなく、他の信者はなににつけても親切で、思ったよりも居心地は悪くなかった。なにより彼女と親密な時間を過ごせる。全然悪くない。
 彼女は彼以外にも親密な時間を過ごす相手が夜毎に変わる。それを御祓というらしい。それでも若い彼は気にならなかった。なにせ、選り取りみどりだ。若い女性信者は案外たくさんいるし、定期的に夜伽も廻ってくる。
 厄介なのはお布施だ。
 すぐに貯金が底をついた。バイトで繋ぐも親に勘当された身なので生活費に消えてしまう。
 先輩に相談したところ、ここで働ければいいわと幹部に掛け合ってくれた。お陰で協会の雑用係として長いこと勤められたのだ。お布施分を差し引いた僅かばかりの給与をもらえ、信者御用達の格安賃貸アパートも紹介してもらった。至れり尽くせりだ。
 勧誘の電話をかけたお陰で友人はいなくなったが、運命共同体とも言える新たな仲間ができた。
 自分は一生、世間とは無縁のこの場所で仲間と共に生きていくのだろうなと信じていた。あの日までー

「その後、首尾はどうだ?」
 黒い安全靴を履いた灰色の作業着のズボンと、焦げ茶色の革靴が並んで歩いてくる。クラップの如く。
 彼が例の如く四つん這いになって、ガムと格闘していた昼下がりだ。
 気候が穏やかになるに伴い落ち着いたのか、夕方施行だけの暇な日が続いている。けれど、彼の仕事は変わない内容だ。時間に追われなくなったのは気楽だが。靴音と同時にTom Waits「Bone Chain」が彼の脳内に再生され始めた。
 彼の大好きなTom Waitsは、教団に勧誘してきた先輩から教わった。清純そうな顔をして随分と反骨精神の塊みたいな尖った音楽を聞いてるんだなと度肝を抜かれたが、聞き込むうちに自由と渋さとカッコよさを備えた中毒性の高い音楽性にすっかり虜になってしまった。今もそれだけは変わらない。むしろ、彼が唯一聞く音楽かもしれなかった。
「試作品ができ上がった。これまでの性能を飛び越えたかなりパワフルな代物だ」
「いよいよ決意は固まったということだな?」革靴が立ち止まった。それにつられて安全靴も立ち止まる。
「・・・ああ、満了一致だ」そうかと重々しい返答のあと沈黙があった。
 彼の頭上を、コルクを回すような音を出しながら小鳥が飛んでいく。
「I’m Still Here」に切り替わる。Tom Waitsの嗄れた声がよく似合う雲一つない晴天。
 平和な眠気を誘う緩やかな日差しが、ヘラを自動的に動かし続ける彼の背中を温めていく。
「・・・健闘を、祈ろう」
「ああ、リリーフ、パッソア」動き出した二足の靴は通用口に吸い込まれて行った。
 湖に沈んだ城みたいに沈黙を守っている葬儀場。スタッフは昼寝でもしているのか人の気配はない。
 彼は、夢うつつになりながら、白く伸びながらヘラに絡み付いてくるガムと対話する。
 リリーフが追加された。パッソアは先日の男の名前ではないのだな。まあそうだろうな。パッソアは酒の名前だ。大学時代によく飲んでいた可愛いピンク色のジュースみたいなヤツ。一口飲めばご機嫌な南国へ瞬間移動できる。今もまだあるのかな? 教団では、あの手のカラフルな酒は邪道だと言って飲むのを禁止されていた。久しぶりに飲んでみたいな。それにしても、リリーフってなんだ? 救援って意味だ。なんの? パッソアの? 酒の救援? 飲み会? わけがわからない。
『全ての人類の救援を目指す!』
 教団には至る所にそんなスローガンが掲げられていた。だから、あんなバカなことしたのだろうか・・
 一部の幹部が水面下でなにかを企てているという噂は、下っ端の彼の耳にも聞こえてきていた。
 雑用の傍らで同僚がヒソヒソと交わし合う言葉から、その幹部達が大規模なテロ計画を練っていることを知ったのは、事件の一週間前。どうやら電波塔をジャックするつもりらしいのだ。
 こりゃあ大変なことになるな、と一瞬過りはしたものの彼は他人事だった。正直バカげていると思った。
 ジャックした電波を使って教団の教えでも説くのか? それとも、なにかショッキングな映像なんかを流して政府かどこかに欲求でも突きつけるつもりか? いずれにしてもバカげていた。
 大体、ジャックする無線ってなんだ。まさかFMラジオなんかの地味な媒体チャンネルなどではないだろうし、アマチュア無線のチャンネルなんかでもないだろう。