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人生×リキュール パッソア

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掃き掃除が終わった地面に張り付いたガムを、ヘラを使って丁寧に刮げ取っていく。
 雨にも負けず風にも負けず夏の熱さや冬の寒さを乗り切ってしまったガムの粘着性は弱まるどころか強化されてしまっているようで、表面は崩れるもののキレイには取り除けない。
 ガムに混ぜられた苺やミントなんかの人工香料が鼻腔をくすぐり、忌々しさを手助けする。
 一体どんなやつが葬儀場の駐車スペースなんかにガムを噛んで吐き捨てるのか。近頃の日本人はと、常識自体を疑いたくなるほどの量のガムが見渡す限り水玉模様になっている。
 彼はうんざりと溜め息をついた。
 世も末だ。憤れない虚しさを抱えながらも、彼はガムを剥がす手を止めない。
 告別式の時間が迫っていた。今日は昼の出棺だ。
 急がなければ。遺族が出たら、控え室とトイレを含めた館内清掃を二時までには完了させないといけない。四時からは、違う家の納棺式が入っている。
 彼は薄くなってもしつこく地面にしがみついている粘ついた物質を睨む。
 とりあえず三つやっつけられれば・・・
「ちょっとちょっと、あんた!なにやってんの!柩車の邪魔だよ!」
 鋭い罵声に顔を上げると、自動ドアの前に不細工な雪だるまのような風貌をした館長が腕を振り上げている。
 いつの間にか彼の背後で霊柩車が駐車スペースに入れなくて立ち往生していたのだ。
 慌てて飛び退くと、中年のドライバーが、弱々しい笑顔を浮かべながら会釈して通り過ぎていった。
「危ないよ!あんた、ダメだよ!周りを確認しながらやらないと、引かれてたとこだ!」
 神経質で有名な館長は禿げ上がった頭まで紅潮させてのんのん近付てくると、ちょうど彼が刮げ途中のガムの上で止まった。
 黒を基調とした制服が今にもはち切れそうだ。コミカルな見た目と反して、分厚い眼鏡の奥には野性味すら感じる鋭く細い両目が鎮座している。その目が今、彼を睥睨していた。
 マズイマズイマズい。彼は汗をかきながら平謝りした。
 霊柩車を駐車し終えたドライバーが、気の毒そうな視線を投げながら足音を忍ばせてホールに入っていく。
「すみません・・・その、うっかりしていたもので。すみません!気をつけます。すみません!」
「そうして、くれなきゃ、困るんだよ!こっちだって、過失だ、労災だなんて、言われたんじゃ、かなわないんだ!」
 強調するためにわざと区切って言ってくる館長。読点で息継ぎをする度に交互に足を踏み鳴らすので、せっかく取れかかったガムは再びコンクリートの模様の一部になっていく。
 あああああぁーと項垂れる彼が反省していると取ったのか、館長はバッと腕時計を見ると、時間になる時間になると呟きながら慌てて走り去った。
 もう今日は、ガム剥がしは諦めよう。
 彼は外用掃除用具をまとめ始めた。
 ついてない。館長が担当じゃないとわかっていたら、もっと目立たない清掃しかやらなかったのにと確認を怠った後悔が今更立った。それにしたって、館長自らがわざわざ霊柩車を迎えていなくてもよさそうなもんだ。
 いやいや。不満などとんでもないと彼は頭を横に振る。
 駅から遠い寂れた工場街の端っこにひっそりと佇むこの葬儀場の清掃員の職は、就活の泥沼の底を這い回っていた彼がやっと得ることができた希望の光だった。
 半年間、面接と履歴書送付の数だけ不採用通知を受け取り続け、僅かな蓄えも底を尽き危うく住む場所まで失うところだった八方塞がりの彼を救ってくれたのだ。もちろん、恩義を感じている。
 館長がどんなに神経質な変わり者であろうと、不条理なことで怒鳴られようとも。こんな自分を受け入れてくれている。有難いことだと感謝の心だけは常に忘れないようにしているつもりだ。
 館内に入ると、先程の霊柩車ドライバーの男が煙草を吸っていた。
 彼に気付くと、ふっと曖昧な笑みを浮かべる。それから、煙草を揉み消すと周囲を見回しながら近寄ってきた。
「災難でしたね。ここの館長は虫の居所がコロコロ変わる要注意人物ですからね。私達の間でも気をつけるべきリストに載ってますよ」男は、煙草臭い小声でそう囁くと苦笑いをする。
 彼は、はぁと引き攣った笑みを浮かべながら「気付かなかった私も悪かったので、仕方ありませんよ」と返した。
 彼のその返答が的外れだったのか、男は苦笑いはそのままに、音もなく離れていく。もしかして、なにか返答をとちったのかもしれないと彼が気付くのはその数十分後、トイレ清掃をしている時だ。
 出棺時にすれ違ったドライバーの態度が、冷ややかな気がした。
 彼は磨いていた便器に向かってふぅと息をつく。人の死を扱う特殊な業界だからだろうか。変わった人が多いように感じるのは。以前所属していた団体も、上に行くに従って変わり者が多かったが、また違った種類だった。
 働き始めて早二ヶ月。
 彼は、この業界になかなか馴染めずにいた。

 日曜日だ。
 早朝から目が覚めてしまうのは、長年染み付いた習慣。
 日曜日には集会がある。あった。ついこの間まで。
「おはようございます。よろしくお願いします」
 事務所の開けっ放しの扉を入り、挨拶しても特に返事はない。誰もいないわけではない。
 館長を含んだお揃いの制服を着た数人の若い男女が、険しい顔をしてパソコンに向かっていた。いつものことだ。それでも挨拶はしっかりしたほうがいいからと仕事を教えてくれたおばちゃん先輩に教わった。
 おばちゃん先輩は、孫の世話をするのだと嬉しそうな顔をして彼と入れ替わりで辞めたのだ。
 ホワイトボードに視線を滑らせると、今日は夕方からの施行しか入っていない。
 駐車場のガムを昨日の分まで取れそうだなと気合いが入る。
 彼は手早く掃き掃除を終わらせると、四つん這いになってガムを刮げ始めた。
 水色折り紙のように斑がない青空から降り注いでくる日差しは春を感じさせるほど暖かい。
 猫柳のような雲が浮遊している。つい先日まで吹いていた北風が嘘のようだ。
 彼は着ていた防寒着を脱いで腰に巻き付けると何度か肩を回した。
 どこの国か忘れたが、ガムアーティストというのがいるらしい。その国は、路上にくっ付いたガムがあまりに多いため、それを憂えた画家がガムに絵を描こうと思い立ったのがきっかけだったと話していた。
 道路や歩道に張り付いたガムは公共物ではないので罰せられることもない。外国ならではの発想だ。ここでそれをやったら、どうなるかなんて火を見るよりも明かだ。なにしろ葬儀場だ。描くとしたらなにを描くのか。
 お経? 梵字? イエスキリスト像? 花? いずれにしても館長に怒られて首になるのは間違いないだろう・・・
「だから実行せずにいるっていうのか? 弱虫にもほどがあるだろう」
 突如聞こえた声にぎょっとして顔を上げると、這いつくばった彼の少し先、足だけが見える目隠しパネルが貼られたネットフェンスで隔たれた通路を、よく磨かれた黒と茶色の革靴が闊歩している。
 通路は、この葬儀場を包囲する恰好で建つ巨大な生産工場の敷地内にある従業員用通路だ。それが、この葬儀場の駐車場をぐるっと囲む形に敷かれ、そこを通る工場の従業員の足だけが見えるのだった。