Loot
他にも条件があります、なんて。どうしてあんな、回りくどいことを言ったのだろう。理恵は、陽子から物件のファイルを見せてもらったときのことを思い出しながら、自転車を漕ぐスピードを上げた。今更、何かを言い澱むような仲でもないし、どんな返事がどのタイミングで返ってくるか、その表情まで先読みできた。でも、引っ越したいなんて言ったら、どんな返事が返ってくるんだろう。シンちゃんの反応が予測できなかったのは、初めてだった。歩行者を追い越すと、理恵は誰にも聞こえないような小さな声で呟いた。
「はっきりせーい」
何となく、シンちゃんの中身が少し変わったような気がする。冬休みに入る前は、ひたすら上を向いて『強いおれ』を目指していたはずなのに。自転車を立ち漕ぎしながら、理恵は最も当てはまる単語を探し続けて、青橋が見えてきたところでふと足を緩めると、サドルに腰を下ろした。
わたしは、シンちゃんをがっかりさせたくない。
工場の駐車場まで来ると、すでに自転車が停めてあって、傍に立つシンちゃんが手を振った。理恵は自転車を停めると、降りながらスタンドを立てて、言った。
「おつかれさま、今日二回目だね」
「どこに引っ越す? おれも近くに行くよ」
シンちゃんは、台本を読み上げるように言った。その唐突さは、録音していて再生ボタンを押したみたいだった。理恵は、思わず目を細めた。感覚が鋭くなって、コピーのように並ぶ白いトラックを照らす殺風景な蛍光灯の光が、ほとんどスポットライトのように感じる。答えを考えていると、言葉が先に出た。
「わたしが近くに行くよ。どこ?」
「え? おれが決めていいの?」
シンちゃんが言い、理恵は目を大きく開いた後、笑った。
「ダメだよ」
「なんだそれ、決まらねーな」
シンちゃんはいつもの調子が戻ってきたように、肩をすくめた。理恵は大きく息を吸うと、言った。
「どうやったら一緒に大移動できるかなって。ずっと考えてた」
「断るわけないだろ。どこにだって、たこ焼き屋の屋台はあるんじゃない?」
シンちゃんは言ってから、自分の頭に問いかけるように宙を見上げた。多分、『何、勝手にしゃべってんだ?』と言っている。理恵は声に出して笑った。それは、わたしも同じだ。笑いがようやく収まったとき、シンちゃんは言った。
「ヤバいな、もっとなんか、映画みたいな感じでさ。バシッと決まると思ったけど」
「いや、バシッてしてるよ」
理恵はそう言うと、腕時計に視線を落とした。あまり遅くなると、小言を言われるかもしれない。シンちゃんは時計を見ることもなく、言った。
「明日もう一回、この話しない? ちょっと、映画観て勉強するわ」
「うん、これ以上遅くなったらお母さんに怒られちゃうわ。明日にしよ」
理恵は名残惜しいまま、自転車のハンドルを持った。変な感じだ。付き合っているわけでもないのに、引っ越しは一緒にするなんて。自転車に乗って交差点で別れるとき、シンちゃんは言った。
「おれが明日もバシッとするにあたって、オススメの映画ない?」
「恋愛映画、全部観て。前半三十分だけでいいから。揉めるところまでは観ないで。バイバイ」
理恵はそう言うと、自転車を漕ぎ始めた。
シンちゃんは赤信号が変わるのを待ちながら、青橋の方へ走り去る後ろ姿を見送った。そのとき、反対側から現れた黒いシルエットを見て、小さく舌打ちした。最後の最後に、台無しだ。あのプレジデントが、二つ先の交差点を曲がって、こちらへ向かってきている。ただ、いつもと違って、その動きはぎくしゃくしていた。プレジデントは青橋の手前で急ブレーキをかけ、白煙を残したまま右に大きくハンドルを切ると、橋の入口に向けて勢いよく加速した。
理恵は、青橋の手前の交差点で信号待ちをしていたが、プレジデントが目の前を荒っぽい運転で走り抜けていくのを見て、シンちゃんの方を振り返ると苦笑いを浮かべた。かなり離れていたが、シンちゃんは理恵の視線に気づいて、同じように『台無しだな』という表情を浮かべた。
その後にまたエンジン音が続き、理恵は前に向き直った。白のレガシィツーリングワゴンが猛スピードで交差点に向かってくる。その車体が青橋を目指して右に傾いたとき、理恵はあんなスピードで曲がれるのかと、運転手のことを心配した。
「理恵!」
遠くからシンちゃんの声がして、理恵は思わず目を閉じた。
急ブレーキすら間に合わなかったレガシィは、理恵を十数メートル跳ね飛ばして殺した後、柵を突き破って青橋の下を流れる川に転落した。
― 現在 ―
『進路を逸れた乗用車が、道路を横断中の高校生をはね、川へ転落。高校生、乗用車に乗っていた二人の全員が死亡』
テロップの字体すら、覚えている。運転役をやったに違いない岡田が突然実家を出て、音松と加山はどこにも顔を出さなくなった。プレジデントがオークションに出されたのは、三週間後だ。ありとあらゆるツテを辿って、音松を捕まえた。加山はあれ以来、顔を見ていない。寺司はふと気になって、湯呑みに焼酎を少しだけ注ぎ足すと、西崎に言った。
「そう言えば、勝手に車を売った仲間の話なんですが。あいつは音松って名前で、空き巣に携帯から金まで全部持って行かれたって、嘆いてました」
ティーチャーズを飲んでいた西崎の手が止まり、寺司は言葉が出てくるのを待った。音松のことは知っているのか。西崎はショットグラスを置くと、険しい表情で呟くように言った。
「そこは、入りました。表札を覚えてます」
「そうなんですか」
寺司は、音松の必死の言い訳を頭に呼び起こした。それに対して、自分がどのように反応したかも。
「おれは、信用しませんでした。特に痛めつけてやろうとか、そういうつもりはなかったんで、捕まえて店に入ったんです。でも、言い訳を聞いてたら腹が立ってね。お冷を入れるピッチャーで思い切り殴りました」
西崎が眉をひそめたとき、寺司は当時自分の周りにいた人間の顔を、名前や立場だけでなく、すぐそこにいるかのように思い起こした。音松が好んで聴いていた海外のヒップホップや、後部座席から常に身を乗り出している加山の咳払いに、公園の周りの道。信号無視して割り込むのが恒例になっていた側道や、青橋の入口。
「懐かしいですか?」
西崎が空いたグラスを眺めながら聞いたとき、寺司はうなずきながら、笑った。本当に、どうしようもない奴しかいなかった。泥濘でアクセルを全開にしているような滑稽さだ。頭の左半分が血まみれになった音松の顔を思い出していると、その例えは過去の自分を総括するように、しっくりと収まった。
「空き巣を専門にやっていくつもりだった奴が、本当に空き巣に遭うとはね。ほんとに、馬鹿しかいなかったな。どうしてんだろうな、今ごろ」
空いた湯呑みをシンクに入れると、寺司は時計を見上げた。閉店時間をちょうど過ぎたが、西崎はいつも、ここからもう一時間ぐらいは飲む。寺司が真顔に戻って西崎の空いたグラスに視線をやると、西崎は空になったショットグラスを持ち上げた。
「もう一杯お願いします。これで最後にします」
寺司がティーチャーズを注ぐと、西崎は言った。