Loot
美幸はそう言ってウィンクすると、リンゴジュースをゴミ箱に捨てた。愛嬌は、付き合い始めのころから変わっていない。その柔軟な人間性は、ずっと曲がった道ばかり進んできた人間を矯正するのに、十分すぎた。そして今も、過去に何かがあったということを知りながらも、それを家族として受け入れてくれている。思い返せば、今までの努力はある意味、普通の人間として存在することを再び許されるためのものだった。死ぬまで続くと思っていたが、もしかしたら、その大前提すら、いずれは変わっていくのかもしれない。美幸が部屋に戻り、寺司は誰もいないキッチンで呟いた。
「おれは止めたぞ……」
そう。音松と加山の前で、確かに言ったのだ。
『こいつは中止にしよう』と。
― 十七年前 冬 ―
公園、プレジデント、たこ焼きの屋台。一カ月ほど前にも、同じようなことをしていた。気がする。寺司は路肩に停めたプレジデントの運転席で、ハンドルに置いた手を離した。冬休みに入ったから、制服を着た高校生の姿はない。特に何の面白みもない町だから、学校にでも行かない限り、若い人間は寄り付かない。それでも、たこ焼き屋だけは屋台を出していた。音松は前と同じように店員に文句をつけているが、窓を閉めているから声はほとんど聞こえてこない。加山は後部座席で爪を切っていたが、ずっと忘れていて今ちょうど思い出したように、言った。
「来週の話」
「来週? ああ、仕事な」
大イベント。寺司はハンドルに再び手を置いた。音松が選定した相手は、宝石を取り扱っている。メリットは、積荷が軽くて小さいこと。デメリットは、盗られた方が死に物狂いで追いかけてくるということだ。先週下見したばかりだったが、受け渡しに現れる車は白のレガシィツーリングワゴンで、GT-B。プレジデントと互角どころか、軽い上に四輪駆動だ。何の心配もすることなく、アクセルを底まで踏める。こちらは力加減をして、車体がバランスを崩さないよう気を遣わないといけない上に、青橋の上りで振り切れるとは思えない。
寺司が言葉を継がないでいると、加山は微かに笑った。
「今イチ、気乗りしないんだな」
「しないね。相手の車が問題だよ。こいつより速いんだぞ」
「お前と同じようにかっ飛ばせる奴なのかな?」
加山が言い、今度は寺司が笑った。
「もしそうだったら、青橋で振り切れない。それどころか、上りが終わる前に追い越されるよ」
沈黙が流れたところへ、窓の外から音松の声が聞こえてきて、寺司と加山は同時に外へ目を向けた。音松は、自分の物真似をしているような格好のヤンキーにヘッドロックをしていた。ただ、表情は笑顔だ。
「じゃれてんな、誰だよ」
寺司が誰にともなく言うと、加山が小さくため息をついた。
「あれは、タモツだよ。おれはよく知らないけど、十八とかじゃないか。色々と首を突っ込んでるらしい」
音松がヘッドロックを解放してプレジデントに戻ってくると、たこ焼きの入った容器を顔の前に掲げて言った。
「食べるか?」
「いや、いいわ」
寺司はシフトレバーをドライブに入れて、サイドブレーキを解除した。これから行くところとしたら、岡田の家か、ゲーセン。次の仕事の追手は同格どころか、こちらより高性能なレガシィ。暇で仕方ないのに、考えることが多すぎる。今のところうんざりはしないが、それだって時間の問題かもしれない。寺司は、社交辞令のようにたこ焼きの容器を見て、呟いた。
「輪ゴムまでピンクになってんな」
「おー、マジか」
音松は初めて気づいたように輪ゴムを見つめて、屋台の方を向いた。加山が言った。
「タモツは、なんて言ってた?」
「どもっす、みたいな。ヘッドロックしてたから、あーって言ってた。あのとろい店員はシンちゃんっていうらしいな」
寺司は呆れたように笑った。意味のない情報ばかりだ。公園が見えなくなり、青橋の近くまで来たとき、音松は言った。
「あのタモツって奴は、伸びると思うよ」
「摘まなくていいのか?」
寺司が言うと、音松はたこ焼きの湯気と格闘しながら首を傾げた。
「何の話?」
「いや、伸びるんならさ。いずれ商売敵になるんじゃないの」
寺司はそう言うと、トラックを追い越して被せるように直進車線へ合流した。しばらく走って返事がないことに気づいたが、自分を含めて三人とも答えを持ち合わせていないということが分かっていたから、それ以上は口に出さなかった。
首を押さえながら屋台まで歩いてきたタモツを見て、シンちゃんは笑った。
「いらっしゃい。たこ焼き、半分に切ろうか?」
「余計な事すんじゃねえ、大丈夫だって」
タモツは、体中に重りをつけているようなだらけた服をさらに着崩している。音松も近い風体だが、タモツは行きすぎて溶けたアイスクリームのようなシルエットをしている。
「あのヘッドロックは何だよ? 兄弟の絆みたいなやつか?」
シンちゃんが言うと、タモツは首を横に振った。
「あれが、ああいう連中の挨拶なんだよ。力が弱ってきたら振りほどいてやる」
「さすが、ワルは気合いが違うね」
シンちゃんが言うと、タモツは首に当てていた手を離した。
「なんだろうな。向こう一週間は、あまりうろちょろすんじゃねーぞって、言われた」
「ヘッドロック中に?」
シンちゃんはそう言いながら、タモツの好みに合わせてかつお節抜きのたこ焼きを容器へ並べた。
「そう、なにかでけーこと考えてんのかもな」
「あの脳みそで?」
シンちゃんが言うと、タモツは大げさに体を引いた。
「おいおい、耳に入ったらシメられるぞー」
シンちゃんは、たこ焼きをひっくり返すための串を手に取ると、言った。
「お前の耳にしか入れてないから、もし広まったらお前からだな。そうなったらこいつで、まずお前の目玉をひっくり返すぞ」
タモツは呆れたように笑った。真面目なふりをしていても、一番発想が危ないのはシンちゃんだし、実際にやってのけるだろう。
「変わらねーな。やっぱり一番こえーのはお前だよ」
たこ焼きで満たされて微かにしなる容器を受け取ったとき、タモツは輪ゴムの色を見て言った。
「お、ついに理恵ちゃんと結ばれましたな?」
「何を言ってんだ?」
「お前がさ、自分で輪ゴムの色なんか変えるわけねーじゃん。貰ったんだろ?」
タモツはコンビニの袋へたこ焼きを入れると、返事を待つように片方の眉をひょいと上げた。シンちゃんはうなずくと、ピンクの輪ゴムを束にしてかけてあるフックに視線を向けた。
「貰ったよ、のぼりの色と合ってるとか色々言って……」
「はいはい、はいはいはい。分かりましたよ。お前、ただ受け取っただけ? ヨーコってわかるか? 家が不動産やってるとこ。理恵に相談されたらしいぜ。賃貸って相場どれくらいで、どの高さのマンションがおすすめなのかって」
タモツが言い終わるのと同時に、シンちゃんは串でたこ焼きをひっくり返す手を止めた。
「あいつ、引っ越すつもりなのか?」
「本人に訊いたら? お前は何も聞いてないの?」
「特には」