黒の海、呼ぶ声に 1
夕食後、私達は書斎に移動した。書斎は洋間で屋敷一階の一番端にあった。ドア開けると正面に机と窓がある。窓からは林と海が見えて、夕焼けのオレンジの光が差し込んでいた。まだ昼間の熱気が残り、古い紙の匂いが立ち込めている。
「普段ここを仕事場にしてるんです。まだ全部片付いていませんけど……」
床の段ボールを除けながら、守人は私を案内した。
「ここの蔵書はなかなか興味深いですよ。かなり古いものもあります」
確かに平積みにされている和綴じの本もある。何となく棚の本を目で追う。
『海洋民族の神話と祭祀』『上古の神神』『罔象草子』『続密呪経典』……なるほど、弟の好きそうな本だと思っていると、こつ、と何か足に当たった。
乾いた黒い泥がこびりついた遮光瓶。汚れているが瓶のラベルは新しい。確かこの瓶は丁度作業中だった学校の用務員と雑談していて見たことがあった。
ストリキニーネ。
さっと守人が屈んで瓶を拾い上げた。
「殺鼠剤ですよ。ここは古いから。地下室に鼠が沢山出て。夜になると上がってくる」
私は眉をひそめた。
「こんなところに転がしてちゃいけないだろう」
本当なら鍵付きの戸棚に入れなければならないようなものだ。
「すみません。使った時にうっかり瓶がどこにいったか分からなくなってしまって……探したんですけど、見つからなくてそのまま。ここにあったんですね」
雑然とした書斎を見回す。
昔から守人は神経質な一方で、興味があるもの以外しばしばいい加減になることがある。
「気を付けなさい。毒の瓶なんて」
守人はすみませんともう一度繰り返した。
「ーー大丈夫です。これはもう使わないから」
守人は窓のところへ行き、まだ明るいのにカーテンを引いた。
「こうした方がよく見える」
マッチを擦ってランプに火を灯して、仕事机の鍵のかかる引き出しの中から、一つの木箱を取り出した。
「一体何を見せてくれるんだ?」
「これです」
守人は箱の中に入っていた白い布に包まれた片手に乗るほどの大きさの塊を、机の上に置いた。
「この家の庭には、ちょっと分かりにくい所に祠があるんですが……」
守人の長い指が布を開く。
「その祠の中に納められていたんです」
包まれた中には、黒い石があった。
楕円形のやや扁平な石は直径が十センチほどで、元からなのか、磨かれたものなのか、つややかな光沢があった。そしてまさに漆黒といっていい色をしていた。傷どころか一点のムラもない。まるでべったりと暗闇をそのまま塗ったようだった。
「持って見て下さい」
私は本能的に触りたくないと感じた。不吉な……触れたら石の黒が、指先に付いて移ってきそうな気がしたからだ。
勿論そんなことは起こるわけがない。
私は石を手に取った。冷たそうな見た目に反し、石は机の中にあったのに、ほんのりと熱を感じた。
「ランプの灯りにかざしてみて。少しずつ……角度を変えて」
促されるままに私は石をランプの光に当てながらまわしてみる。
「あっ……」
すると真っ黒な石の表面に、模様か文字か分からないが、何かの羅列が浮かび上がる。金のような赤いような不思議な色の線が立ち現れ、しかしすぐに消えて、再び見える角度を探すと同じものが見えた。
「これは何なんだ?」
私は戸惑いながらも守人を見た。
「分かりません。でもとても綺麗でしょう。兄さんにどうしても見せようとずっと思っていたんです。ほら、もう一度よく見て」
言う通りにじっくり眺めたが、今度はいくらやっても何も見えなかった。
「“機嫌”がいいともっとはっきり見えるんですけど」
私は石を机に置いた。
「でも何だか不気味な感じだな。人が作ったのか自然物なのか分からないが……」
「そうですか? 僕はとても美しいと思いますけど」
石を取り上げ、守人はランプの光のほうへ掲げた。
「だって、こんなに闇そのものみたいに真っ黒で滑らかでしょう。黒曜石(オブシディアン)でも黒瑪瑙 (オニキス)でもない……どんなに高価な宝石も敵わないですよ。僕には分かるんです」
守人は愛しげに石の表面を撫でた。
「兄さんにもきっとこの美しさが分かるようになりますよ」
私は何とも言えなかった。美しく珍しいものだとは思ったが、私は何故か道端で動物の死骸に遭遇した時のような、振り払えない不快感を覚えた。
「それにしても祠にあったものなんて、取ってきてよかったのか?」
「僕が見た時には半分壊れてましたし、管理する人間がいなくてずっと放置されてみたいですからね。祠は元々は別の場所にあったものを、此処を建てた時に移して来たものらしいです」
屋敷神として祀って祭祀していたのだという。
「どうやら背戸家は血縁だけでの独自の信仰を持っていて、先祖から引き継いでいたものらしいんです。祖霊崇拝の一種……祖先の霊が、時には選ばれた生者が、姿を変えてこの海に留まり子孫を見守り続ける。山海の隔絶された他界に行くのでも祖霊が神になるのともちょっと違う。別の存在に成る。豊淤饌(トヨケ)、そう呼ばれるものに成ると、そういう考え方らしい。信仰そのものはかつてはこの地域一帯で盛んだったものの、長い年月のうちに衰退してしまった。その名残りを残しているのが祭司の立場にあったこの家だった、僕は考えています」
「祭司……古くからある家なんだな」
「祀りごとの中身は、今だと中々にグロテスクであったらしいですよ。何年かに一度は生きた贄を捧げていたとか……」
私は先程感じた石への印象と、守人の話す内容がひどくしっくりきてしまい、ぞっとした。
守人は私の顔を覗き込んで笑った。
「あはは、もしかして兄さん怖がってますか。昔の話ですよ。祖父の時には祀り方もだいぶ簡単なものになっていたみたいだし」
「別に怖いわけでは……」
「そういう事にして置きましょう」
顔を赤らめた私を見て楽しそうだった。
「ところで、お前はどうやってこういうことを知ったんだ?」
「ここに越してきて書斎の整理をしていたら、日記を見付けたんですよ」
「日記?」
「祖父が書いていたものです。そこに色々書いてありました。それでまあ、他にもこの家に関する記録はないかと探してみたりしてたんです。つまり日記を読んだのが先で、興味を持った僕は祠の場所を探してみたというわけです」
そう言いながら石を再び丁寧に包む。
「だからこの石は僕のものでもあるんですよ」
と守人は目を細めた。
「手に入れた時からいつか兄さんに見せたいと思っていました」
確かに彼の母方に伝わっているものなら、彼に所有権があるといえるかもしれない。祠の中身を取って来るのはさすがにどうかとは思うが……。
「そろそろお開きにしましょう。宿に戻るのが遅くなるといけませんし」
「あ、ああ」
作品名:黒の海、呼ぶ声に 1 作家名:あお