黒の海、呼ぶ声に 1
「兄さん、ちょっと」
久し振りに家に顔を出した日の帰り際、私は宏哉に話しかけられた。
「あいつのことで…」
口振りで誰のことかはすぐに分かる。
「守人のことか」
そうだと宏哉はため息を吐く。
「全くあいつは。昔から何を考えているのか分からない。母さんの援助で何とかやってたくせに、やっと一人立ち出来たと思ったら相談もなくいきなり田舎に引っ越すし」
「あの村は守人とって故郷とも言える訳だし……、きっと創作意欲にも何か影響するものがあったんだろう。まあ理解してやれ」
私は宏哉を宥めるように言った。
「兄さんも母さんもあの作家センセイに甘過ぎる」
宏哉は不機嫌さを隠そうとしなかった。
「何だ、そんな話がしたかったのか?」
「いや、それがあいつ沙弥香の結婚式の日取りを知らせても何の連絡もして来ない」
「ああ……」
守人の場合悪気なく忘れていることもあり得る。
「母さんがせっついて来てうるさいんだ。それで」
私は次に来る言葉を予想して気持ちが重くなる。
「兄さん、学校の方は夏季休暇に入ってるだろう。少し様子を見に行っちゃくれないか。僕は忙しいし、兄さんならあいつも邪険にはしないだろうし」
宏哉が私などより忙しいのは本当だ。断れないのも分かってるんだろう。
「……分かったよ」
私はそう答えるしかなかった。
宏哉は望む答えを得て満足したようだが、続けて声を潜めた。
「それと……、取引先にあの近くに実家がある人間がいるんだが」
「なんだ?」
「淤見の辺りで変な噂があるらしい」
「噂?」
「おかしな奴が毎晩うろついてるとか、変な声を聞いたとか、地元の子供がいなくなっただの色々だ」
「それがどうしたんだ」
「いや、だから、あいつおかしかった時期があるだろ」
さすがに聞き咎める。
「おい、まさかその噂の出所が守人だとでも言うんじゃないだろうな」
「勿論関係ないとは思うよ。でも田舎で新参者が色々言われ易いのは確かだし、妙なことになってなければ良いと思っただけだよ」
「宏哉」
「紗弥香の式も近いんだ。兄さんみたいな世間ずれしてない人は分からないかもしれないけど、噂は噂があるってだけで良くないこともあるんだよ」
紗弥香のことを思うの分かるが、守人だって私達の弟だ。
だがここで宏哉と言い争っても仕方がない。
「とにかく様子だけは見て来るよ」
「じゃあ頼んだよ。母さんにも伝えておくから」
宏哉が奥に引っ込むのを見届けて、私は異母弟の名を口の中で呟いた。
作品名:黒の海、呼ぶ声に 1 作家名:あお