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黒の海、呼ぶ声に 1

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私はふた月前に異母弟から受け取った手紙から目を上げて、何度も読み返して折り目の端が切れているそれを、折り畳んで封筒に仕舞った。
バスの窓の外に目をやると、海が見えていた。
村の役場前の停留所で降り、目的である村外れの屋敷を目指して私は歩き始めた。じりじりと夏の日差しが照り付け、すぐに額に汗の玉が浮かんだ。
風向きのせいか漁港のあるらしい方向から、生臭い匂いが漂ってきて鼻をかすめる。
とっくに漁も終わった時間で、この暑さのせいもあるだろう、誰も人を見かけなかった。
村は想像していたよりもだいぶ寂れた村だった。民家はどれも古びていて、海風に錆びたトタンがみすぼらしかった。
「御免下さい」
雑貨店らしき建物を見つけ、私は帽子をとりながら開放されている硝子戸から中を覗いた。薄暗い店内はほとんど商品らしい商品もなく、がらんとしていた。
「道をお訊ねしたいのですが」
「何だあんた」
店主と思しき男が疑わしそうな目でこちらをみた。
奥の座敷では老女が上がり框(かまち)に腰かけた中年の女と話していた。
「……の、倅が……もうひと月……」
「……また……の……」
二人は何やら噂話でもしているようだったが、はっきりとは聞き取れなかった。
私は目的地を伝えた。
相手の顔にあからさまな嫌悪が浮かんだ。
「淤見(よみ)の屋敷か。あすこの家の人間は何年も前に死んだよ」
「いえ、用があるのは今の家主です」
「ああ、こないだ来た孫の方の知り合いかい」
「はい」
「そいえば前にも一度東京の出版社の人間だという奴が来たなあんたもそうか」
「まあそんなところです……」
私は言葉を濁した。
「あんたも田舎くんだりまで大変だが、あの家にはあんまり近寄らん方がいいよ。用を済ませて早く帰るこった」
店主の言葉に、私は聞き返した。
「何かあるんですか?」
「余所の人間に聞かすような話じゃない」
店主は素っ気なく言った。
道を聞くと私は外に出た。

再び歩き出し、先刻の会話に気にするような話ではないと思いつつ、胸がざわつく。
(守人ーー)
私がこれから訪ねる相手は、私の六つ下の異母弟の守人だ。
守人は私の父が妾の女性との間に儲けた子である。五歳で我が家に引き取られ、ずっと家族として暮らしていた。井筒黄瑛という筆名で書いている作家で、今年の春からこの村に住んでいる。村は彼の母親の故郷だった。
私は守人の母親だった女性に、彼が生まれる前に何度か会ったことがある。彼女は叶絵という名だった。私は父親に連れられ、彼女が住んでいたこじんまりした質素な家に行った記憶がある。
朧気な記憶の中で、彼女は青白い肌の、美しいが冷たく独特な顔立ちをしていた。
彼女は私を坊っちゃんと呼び、親切だったように思うが、知らない家に連れて来られて私は終始気詰まりだった。小さな狭い家と彼女の、控えめな印象だけが残った。
それから月日が経ち、母を亡くした幼い守人が私の家に来た。彼女が自死だったと知ったのは、さらに後のことだった。

道はそれ程歩かないうちに、民家がなくなった。右手に山を控える海沿いを、私は進んだ。やがて雑木林に囲まれた屋敷の一部が見えた。
守人の祖父にあたる背戸藍蔵氏が住んでいた屋敷だ。
詳しくは知らないが、守人の母の叶絵が亡くなった後、程無くしてこの家に住んでいた叶絵の父親の背戸氏が急死した。事故だったらしい。一緒に住んでいたもう一人の娘ーー守人の母の姉ーーも、もう居ないという。
故郷と絶縁していた叶絵を弁護士が探し当て、その時には彼女は亡くなっていたから、屋敷と財産は一人息子の守人が成人した際に相続することになった。

林を抜けると、屋敷の庭に出た。玄関まで庭石が続いている。
屋敷の第一印象は、陰気で鬱々としているというものだった。
いわゆる和洋折衷の建築で、外観は西洋風だが、庭に面した廊下などは日本家屋の構造をしている。
ずっと手入れをされていなかったであろう庭の樹木は、半ば枯れた雑草と、ねじくれた蔦を絡ませながら葉を野放図に繁らせている。建物は塩に腐食されて、あちこち塗装がひび割れていた。敷地全体の荒廃のせいであるのか、家は見ているだけで何だか気分が塞いで来るようだった。
とはいえ、屋敷自体は広く豪奢なものだった。守人の祖父の代にはだいぶ財産も失っていたらしいが、代々素封家であったという背戸家の暮らしぶりを偲ばせる。私はふと叶絵について、何故こんな家の娘が家を出て妾などしていたのだろうと頭をよぎった。
私は玄関の前に立ち、しばらく迷ってから呼び鈴を押した。
何度か押して返事があった。
「どちら様ですか?」
守人の声だった。
「私だ。和巳だ」
すぐに扉が開いた。
「ああ! 来てくれたんですね兄さん!」
何ヵ月振りかに会った異母弟の顔に、私は言葉につまった。
元々彼の母親に似て線の細い翳りのある風貌だったが、こけた頬に、色素の薄い細い髪が以前より伸びていた。髪の間から見える目の下に隈を作って、別人のように憔悴していた。
「久し振りですね」
「どうした? その様子じゃまるで病人じゃないか」
守人は苦笑した。
「先日流行り風邪をもらってしまって。寝込んでたんです。でももう治ったので大丈夫です」
「医者には診てもらったのか?」
「ええ。それより中に入ってください。お茶をいれますから」
「ああ……」
私は促されるまま、中に入った。

中に入っても、外観と同様に陰気な印象は拭えなかった。どこか薄暗く、色褪せた壁紙の端がめくれていて、廊下は歩くとかすかに軋んだ音を立てた。何より家全体がじっとりと湿っているように感じ、カビの匂いと……、うっすらと漁港から漂ってきていたのと同じ、死んだ魚の匂いがしていた。
私は応接室に通された。
腰をおろすと、守人が紅茶を運んできた。
「この間まで通いの婆さんがいたんですが、持病が悪くなって来れなくなってしまって。まだ新しい人が見つからないんです」
紅茶を出すと守人は向かいに座った。
夏の盛りに長袖のシャツを着ている理由を、私は知っている。
「それにしても会えて嬉しいです」
「まあ、学校も休暇に入ったし……」
歯切れ悪く私は言った。
「僕のこと、気にかけてくれたんですね」
頬を染めて嬉しそうな顔の弟に、私は正直に言うべきか迷った。
「少し様子を見にきたかったから……その、」
守人はすぐに察したようだった。
「ああ、もしかして宏哉兄さんに言われて来たんですか」
私のもう一人の弟である宏哉と、守人は子供の頃から仲が悪かった。正確には大人しい守人を、宏哉が一方的に嫌っていたのだが。
五歳の守人が家に引き取られてきた時、私と違って宏哉はまだ幼かった。
母親が突然家にやってきた自分とほぼ歳の変わらない子供の世話をするのが、親を取られたようで受け入れられなかったのだと思う。
一番下の妹の紗耶香が生まれると、宏哉はことさらに妹を可愛がった。
「宏哉もお前を心配しているんだよ」
「和巳兄さんは相変わらず優しいですね」
守人の言葉に私は苦笑いする。
稼業を継がずに教師になった私の代わりに、将来次男の宏哉が父の事業を継ぐ予定だった。多少はそれも影響し、私と違いはっきりとした性格のすぐ下の弟に、私はどことなく頭が上がらない。
作品名:黒の海、呼ぶ声に 1 作家名:あお