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人生×リキュール パルフェ・タムール

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 まだ夕刻だというのに街並は沼の中のようにどんより沈み、雨脚は増していた。
 スワロフスーガラスの粒ではない。如雨露から満遍なく注がれるじっとりと浸透していく類いの雨だ。
 一人は雨を堪能し、一人は記憶喪失という設定なのでどちらも傘を持ち合わせていない。
 霞む街灯やネオン灯、店の看板を頼りにして二人は軒下から軒下へと放浪した。
 お互い終始無言だ。
 彼女の頭には、マニキュアの不安が常にあった。
 このわけのわからない状況下で、せめて爪先に強さが欲しい。
 揺らぐことのない確固たる強い色を今すぐに塗りたいのだ。
「あそこへ」
 宵闇が充分深まった頃に男が指差したのは鬱蒼とした木々に埋もれた古びた扉。
 扉だとわかるのはスズラン形の照明が扉を照らしていたからだ。男は躊躇なく扉を引いた。
 呟くような低いウッドベースと洒落たピアノの囁き、それに絡まるしっとりと湿度を纏った女性の歌声に包まれた。さっきまで彷徨っていた憂鬱な世界とは異なった非現実な空間に踏み込んだような錯覚を覚える。
「いらっしゃいませ」
 初老のバーテンダーが男に丁寧なお辞儀をすると、男もお辞儀で返したので彼女も軽い会釈をした。
「よく来るの?」
 カウンターのイスを引いて彼女を座らせ、自分も落ち着くとボトル棚に素早く視線を走らせる男。
 手慣れている動作に彼女が訊ねると、JanisIanですねと両手を組んでトンチンカンな返答をよこした。
 やはり、カレデハナイ。
 まぁいいか。どのみち今日は行き当たりばったりで過ごそうと決めていた。彼女もカラフルな棚に目をやる。
「選択肢が多過ぎることは、自由に見えて、案外不自由なのかもしれないわね」
 五分ほどボトル棚の上を上下左右に彷徨っていた視線を落とした彼女が両手で腕を抱いた。
 男が不思議そうに振り返る。
「たった一杯の飲み物すら決められない」
 それは一種の防衛反応ですね、とカレデハナイ男は笑いながらカウンターに乗った両手を広げると、確認するように何度か開いて閉じた。
「人は未知の事態に遭遇すると、判断ができなくなり原始的な反応しかできなくなってしまう。防衛本能からの即ち思考停止状態です。そうなると、それまで正常に機能していた全てが疑問の塊と化してしまう。どんな完璧な人でも、ね」
「そういうものかしら?」ボクがそれだ、と彼女を振り向く男。どこまでが本当なのかわかったものではない。
「あなたの記憶喪失は、今までの知識や経験ではどうにもできない事態になって、更に選択を迫られたから、その防衛反応として発動した。そういうこと?」
 そうなりますね、と男は面白そうに笑みながら頬杖をついて、空いた指先で空をなぞる。どうやら立方体を描いているらしい。彼女は男の指を目で追いながら、自分の爪が見えないように掌を上にした手をそっと重ねた。
 不敵で柔らかな笑みを貼付けた男の目的や結論を探ること事態が、きっと無駄なのことなのだろう。
「ブルームーンなんかいかがですか?」二度ほど立方体をなぞった指を今度は顎にあてがいながら男が彼女を振り返った。
「ブルームーン?」
「素敵な名前でしょう。カクテルです。そうですね、ちょうど今日の雨みたいな色をしています」
 そう言って、男の手はリズムを取るように宙を滑らかに動く。この人の手は、まるでタクトね、と彼女は思う。骨張ったゴツいタクトを指揮者のように振って、全体の演奏を統率しつつ、次へと繋げる。
「リザーブしているパルフェ・タムールがあるはずです。それを使います」
 男が目眴せすると、心得たバーテンダーが一つのボトルを出してきた。ボトルネックにかかった金色のプレートにはフランス語らしき文字が並んでいる。眉間に皺を寄せた彼女が解読できそうにないことを見て取った男はスラスラと読む上げた。
「日本語にすると、人生を慈しむ一杯を。このリキュールをくれた老人に言われた言葉です」
「人生を、慈しむ・・・?」
「慈しむは愛しむとも言います。自分自身の人生を可愛がって愛する。老人と出くわした当時のボクにとっては、まさに青天の霹靂。衝撃的な言葉でした。自分の人生を愛するなんて、まったく思いも寄らなかったんだ」
「あなたみたいな人でも、そんなことを思うのね。失礼だけど意外だわ」
「心外だな。ボクだって人並みに落ち込みもすれば、憂鬱にもなります。立ち直れないほどの経験も片手じゃ足りません。ごく一般的なタイプの人間ですよ。当時のボクもそうだった。詳しいことは話したくありませんが、要は失恋した後だったものでね。お恥ずかしい話ですが、荒んでました。そんなんで人生を愛せよ? できるわけがないだろうって否定的でしたね」
 男は苦笑いを浮かべながら、大きな溜め息をついた。筋肉質の幅広い背広の肩が上下する。
「極めつけがこのリキュールだ。この、パルフェ・タムールはフランス語で、完璧な愛という意味なんです。愛を喪失したばかりなのに、なにが完璧な愛だと余計に腹が立ちました。完璧な愛でもって人生を慈しめだと? こんな時に、人をコケにするのかって怒鳴ってやりたかった。ですが、なにも知らない老人の親切心ですので、そこは堪えて渋々受け取りましたよ。ですが、その足で真っ直ぐここに来たんです。マスターに事情を話して引き取ってもらいました。自分には不要だと判断したんです。こうして話すのは、恥部を曝しているようで苦痛なのですが、仕方ありません。まだ青かったんです」
「大丈夫よ。どんなに完璧な人でも、失敗した経験なんて片手くらいは持ってるものだもの」
「そう言っていただけると救われます」男は拳を口許にあてて一回咳払いをすると続けた。
「現品を手放しはしたものの、一度起こった出来事が記憶から抹消されることはなく、その言葉はなにかにつけてボクの思考に割り込んできました。人生を慈しむ完璧な愛とはなんなのか。恐らく老人は、全くそんなつもりはなく、偶然これを渡してきたに過ぎなかったのでしょう。ですが、この世に偶然という現象はないと言います。あるのは必然だけ。老人との出会いは、自分にとって大切な気付きのきっかけだったのではないだろうかと考え始めました。一体なんの気付きなのだろうか?と」男はそこで言葉を切ると、チェイサーを一口飲んだ。それから、バーテンダーの方を向いて軽く手を上げた。
「時間がかかってしまい申し訳ない。マッカランのロックを。こちらの女性にはブルームーンをお願いします」
 バーテンダーは承りましたと言ってお辞儀をすると、グラスを並べて準備をし始めた。それを横目に男が再び口を開く。
「ボクたちは往々にして愛と恋とを履き違えている場合が多いのです。恋とは一方的なものなのです。愛の反対は憎しみではなく無関心である、という文句はご存知ですか? マザーテレサの言葉です」
 首を振る彼女を見てか見まいか、男の独白のような饒舌は続く。