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人生×リキュール パルフェ・タムール

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 食べ終わると、彼の使っていた歯ブラシや寝間着などを全て集めて透明なゴミ袋に入れ、その上から嘔吐し始めた。そんなに吐き出すものがあったのかと驚くくらいに彼女は実に三日三晩嘔吐しまくった。
 忌々しい物品はゲロで塗れて原型を止めていない。
 それは、彼女の愛情の成れの果てとしてのゲロに塗れた彼への愛情だ。
 胃液しか出てこなくなると、彼女はゴミ袋を縛って下のゴミ置き場に捨てにいき、シャワーを浴びて眠りについた。そして、そのまま三日間ほど眠り続けたのだ。その間のマッサージの仕事は全てキャンセルしてしまった。
 軒下から垂れる雨音の音で彼女が目覚めた時、季節は新緑の季節から梅雨に移り変わっていた。

 彼女は、トイレに籠って、先程買った仕度品に着替えていく。
 彼とお揃いで買ったキャラクターTシャツとジーパンを脱ぎ捨てて、袖と裾の透け感が美しい仕様のプラダの黒ドレスに。擦り切れたスニーカーからダイアナの黒いエナメルパンプスに履き替えた。
 それから手洗い場の鏡に向かって真紅の口紅をひく。
 大丈夫。
 今の私なら、今までの私に負けない。
 服装に不似合いな安っぽいコーラルピンクの爪が並んだ手が気になって仕方なかった。
 私この色、嫌いだわ。
 黒っぽい色が欲しいと思った。黒すぐりみたいに黒い紫や赤。深いワインレッドでもいい。
 どうしてもその色のマニキュアを手に入れて爪に塗らなければいけない気がした。
 彼女は、それまで着ていた服やスニーカーをまとめてゴミ箱に突っ込むと、理想の色をしたマニキュアを求めて、雨の渋谷を彷徨うことに決めたのだ。

 エナメルのパンプスは雨を弾き、真新しいピンヒールは濡れた渋谷に靴音を響かせた。
 ドレスの端に舞う雨滴はまるでラインストーンのように散る。
 今の私、最強。
 女は、身に着けるもので弱くも強くもなれるものだから。
「雨宿り、ですか?」
 マニキュア探しに疲れてカフェで一息ついていると、声をかけられた。
 振り返った彼女は仰天した。
 よく見慣れた無邪気な笑顔がアルマーニのハンカチを差し出している。
 彼なのだ。
 いや、顔の作りは彼にそっくりだが服装や声、物腰が違う。
 サーファーを気取る彼は、アルマーニに興味などない。こんなハイソな恰好はしない。
 それに、男の目尻には烏の足跡。
 彼、では、ない・・・
 別、人?
 彼女は動揺を悟られまいと顔を背けると、人違いですと慌てて手を振った。
 恰好に不似合いなコーラルピンクが視界に入ったのが恥ずかしくなってテーブルの下に引っ込める。弾みに、飲んでいたカフェオレをひっくり返しそうになってしまう。
 相手の男は、彼女の様子を見て戸惑っているようだった。
「ああ、あの、気にしないで。今したいと思ったことをしているだけですから」
 視線を泳がせながら彼女は慌てて言い直す。
 言い直してから嫌になった。
「ああ」なんて間抜けな声と「あの」なんて、気弱な指示語。「ですから」なんて誰に対しての丁寧語?
 私は誰に謙遜しているのだろう。
 けれど、男からほっと胸をなで下ろす気配がした。
「そうですか。なんだかそれって羨ましいですね」
 男の烏の足跡が深くなる。
 次いで筋張った手で照れくさそうに頭をさすり始める。
 照れた時の彼の癖。
 けれど、この人は、カレデハナイ。
 頭をさするのは一般的な男性の癖として多い動作だ。
 彼女は深呼吸を一つしてから首を傾げる。
「自分が今したいと思っていることを、できることが羨ましいです」
 頭から手を離した男は言い直した。
 温かそうな色をした掌が彼女の目に飛び込んでくる。彼と同じような。カレデハナイのに・・
 あなたはいつだって自分の直感に従って、私を振り回しながら好き勝手やってきたじゃないと、不満が口をついて出そうになったのを寸でのところで飲み下した。
 危ない。
 目の前の男は彼ではない他人なのだと言い聞かす。
 カレデハナイカレデハナイ。
 テーブルの下、膝の上で握りしめた拳にぐっと力を籠めた彼女は男を見据えた。
「やるしかないから。私は」
 肩甲骨を寄せて背筋を伸ばした彼女はドレスの裾をひらめかせる。
「羨ましい。ボクは、自分がなにをしたいのかが、まずわからない」困ったような笑みを浮かべる男は、ロレックスがキラリと光る腕をゆっくり組んで首を左右に傾げた。
「それどころか、こうしてあなたに話しかけている自分が何者なのかすらわからないんだ」肩を竦める。
 もしかして、と彼女の期待が頭を擡げるのと同時にそれってと言葉が出る「記憶喪失ってこと?」
「わかりません」更に肩を竦める男。
「病院には?」
「保険証が見当たらないので、行けません」掌を目の前に出してひらひらと振る。
「身分証も?」
「あったらとっくに自分の正体、わかってますよ」
 あはははと明るく笑う男。その崩れた笑顔は、彼じゃない。
 彼の笑顔は無理をしているような強ばった顔。
 まったくの別人だ。
 カレデハナイ。
 それで、嘘臭い。
「じゃあ、あなたはどうしてここにいるの?」
「気付いたら、いました」コーヒー飲んでたら寝ちゃったみたいですね、とカップを口許に持っていく仕草をする。
「そうしたら、あなたが入ってきました。びしょ濡れなのに、困っても慌ててもいなくて。なんかそういうの、いいなって思いました。それで、気付いたら声をかけていました」男の指が、まるで雨だれが落ちるような動きを何度か宙に描く。
 要はナンパってことねと腑に落ちた彼女は、オーケーわかったと掌を振った。
 再出発しようとするこんな日に、寄りにもよって別れた男にそっくりな男と出会うなんて、一体全体この世の中は私になにをさせたいんだかわかりゃしないわ。
 私の気持ちを試そうとでも言うのかしら。私に蟠っている未練を?
 ないわよ。そんなもん。
 全部吐き捨てたんだから。それに、その時の私も、ついさっきゴミ箱に捨ててきた。だから、大丈夫。
 私は自分に遠慮する必要なんてないのよ。この元カレのそっくりさんにも同様に。
 彼女はカフェオレを一口飲むと、立ちっ放しの男に向き合った。
 とりあえず、座ったら? と向かいの席を指差した。
「それで、あなたはどうしたいの?」彼女は、両手を組んで頬杖をついた。
「それがわからないから、もうかれこれ3時間ほどここに逗留しているんです」困った笑顔。カレデハナイ。
「あぁそもそもが、そういう設定だった」堂々巡りになりそうな会話。
「そういう設定です」いかにも困った顔を作って大袈裟に頷く男。変な人。彼女は段々おかしくなってきた。
「その設定では、ここに、このカフェに留まり続けることになっている?」
「うーん・・・そこが問題なんです。ここでいくらコーヒーをお代わりして思い出そうとしても、ちっとも思い出せないので」
 額に皺を寄せながら口許に持っていった男のコーヒーカップは既に空だった。カップを持つ短く切り揃えられた爪が並ぶごつい手には微かに毛が生えている。血管が盛り上がる白くも黒くもない男性らしい大きな手だ。
 ああ、いけないとお代わりを注文しようと上げかけたその手を、それならと彼女は制した。
「出ましょうよ」