人生×リキュール パルフェ・タムール
「愛とは、自ら愛することで存在し、愛されることとは関係がない次元のものです。愛することで失うものはなにもなく、傷付くこともない。その上、完璧とは一つの欠点なく完全無欠であることだ。完璧な愛とは、一つの疑いや曇りがなく純粋な愛情だということになる。愛する対象は自分の人生ですから、もちろん完璧でないといけません。中途半端な気持ちや無関心では人生を台無しにしてしまう恐れだってあるから」
「それじゃあ、人生は愛するか無関心かの二択ってことになるのね?」
「まぁそういうことです。ですが、よく考えてみれば当たり前のことかもしれません。自分自身の人生を信用して受け入れていなければ、生きることすら辛いでしょう。自分の人生に無関心でいるなんて死んでるのと同じです。愛するなんていうと大袈裟かもしれませんが、今の自分を形作っている過去の愚かだったり失敗したような恥ずかしい自分も引っ括めて自分なのです。それを誰でもなく自分自身で慈しむべきである。まさにボクに足りないことだったのです」
「あなたは今、人生を慈しんでいる?」
「そのつもりです。だが、自分自身を愛するということは、なかなかに手強い」誰かを愛する方がわかりやすく簡単かもしれません、と目尻と額に皺を寄せて、気まずそうにはははと笑う。
「ですが、自分自身を愛することができなければ、他の誰かを愛することはおろか、生きることさえ侭ならなくなってしまうでしょう。死ぬのに理由は要りませんが、生きていくためには理由が要りますからね」
納得したように何度も頷く男。おしゃべりな上に騒がしく掴み所がないこの男に彼女は不思議な感情を抱いた。
「自分自身を愛する・・・生きていくための理由・・・」
男と同じように、今までそんなことを考えて生きてきたことはなかった。
そもそも愛するってなに?
私は誰かを愛してきたのかしら? 彼の顔が浮かぶが怪しかった。
愛とは無償のものでなにも失わないという。けれど、自分は思いっきり傷付き、彼からの見返りの言葉を期待し、挙げ句に失くした。私の彼に対しての気持ちは愛情ではなかったということなのだろうか?
彼女が悶々と思いを巡らせていると、注文した品が出てきた。
細身のカクテルグラスで出てきたそれは、青というより紫を濁らせたような液体だ。
ブルーっていうよりヴァイオレットね、と彼女は思考を中断した。
「紫色なのに、どうしてブルームーンなのかと思いますよね。そう。実際にブルームーンを見たことがない人はそう感じるでしょう。ボクはブルームーンを一度だけ見たことがあります。摩周湖でね。湖面に映る影と共にとても美しかったのを覚えています。その時の景色は青というよりも紫に近い青とでも表現すればいいでしょうか? 似ていますよこの色に。幻想的な色でした。ボクはその時にも今日のように記憶喪失になりましたっけ」
だいぶ思い出せているみたいでなによりね、と彼女は男の饒舌に耳を傾けながらブルームーンに口をつけた。
思いのほか甘くなかった。男が例えたように、今日の雨はこんな淡い味がするのかもしれない。
雨樋を伝うリズミカルな音が微かに聞こえる。
店内の空調で濡れたドレスはすっかり乾いたので軽い。まるで穴蔵にでもいるような心地いい気分だ。
彼女はアルコールも手伝い、カレデハナイ男の横顔を眺めながら思いに耽ってぼんやりし始めた。
完璧な愛、ねぇ・・・
彼は男友達から紹介してもらったのだ。
後輩だと会わされた彼は童顔で真っ黒で、暗闇だと同化してしまい歯と白目だけしか見えないような有様だった。垢抜けない仕草が新鮮で可愛く感じたのは、愛ではないと思うが、危なっかしくて頼りなくて守ってあげたくなるようなあの気持ちは母性愛の類いだったような気もする。それは辛うじて愛? でも、
『筆おろしとして紹介しただけだぜ。それがなに? あいつマジになっちゃったって? うわーそれはグロいな。まさかの、おまえみたいな田舎坊主が好みだったとか。ねーわ』
聞いてしまった。偶然。彼と彼を紹介した男友達が話しているのを。
彼は終始、そうなんっすよーサバサバ系かと思ってたんですけど、重くてマジ困ってますわーと苦笑いをしていたっけ・・
そんなことを聞いてしまったのに、私は彼を受け入れ続けてしまったのだ。あれは、
あんなものは愛なんかじゃない。私は、常に苦しかった。気を抜いたら、叫び出してしまいそうだった。どろっとした黒いものに浸食されていく感覚。私は私自身をも傷つけていたのだ。疎かだった。私はなにに浮かれていたのだろう。
バカみたいだ。本当に・・・
バーテンダーと話し込んでいたカレデハナイ男が、咄嗟に彼女を振り向いた。
「いけないいけない。雨漏りだ」そう言って彼女にアルマーニのハンカチを差し出した。
彼女の頬を水滴が伝っている。
頬杖をついた手にぽつぽつっと落ちたことに気付いた彼女は、慌てて立ち上がった。
一刻も早く濃い色のマニキュアを探さなきゃ。
カレデハナイけれど彼のような顔をしたこの男といると私は私に負けてしまう。
「ゆっくりでもいいじゃないですか!」
怒鳴るような調子のカレデハナイ男の言葉が、扉に手をかけようとしていたコーラルピンクの爪が並んだ彼女の手を止めた。
彼女の頬には雨滴が流れ続けている。
悲しい雫がドレスに散っていく。
彼女の視界でぼやけていくコーラルピンク。
「恐れることはありません。焦らなくても大丈夫です。徐々にでいい。徐々に人生を慈しめるようになればいいんですよ。大丈夫。誰もあなたを脅かしたりしませんから」
怖々振りまいた彼女の前で真剣な顔をしていたのは、彼とは似ても似つかないカレデハナイ男だった。
「それでも傷が疼くなら、その傷の存在自体を喪失しちまえばいいんですよ。ボクみたいに」
そう言って掌を顔の前で戯けて振ってみせる男に、彼女は確かにどこかで会ったような気がしたが、思い出せなかった。
※パルフェ・タムール(クレーム・ド・ヴァイオレット、クレーム・イヴェット)
色彩の艶容さとニオイスミレの甘い香りが人気の「完全な愛」と名付けられたこのリキュールは、1760年フランスのロレーヌ地方において、ニオイスミレの香りを溶かし込んだ酒を作った酒商が媚薬的効果を全面に出して売り出したのが始まりと言われる。発売当初は、赤や黄色などカラフルな展開だったが、セクシーな紫だけが広く受け入れられ残る形になったようだ。十九世紀に入ると知的階級の間で、新たにニオイスミレの香りと色を強調したクレーム・ド・ヴァイオレットが生まれ、1890年にはアメリカでクレーム・イヴェットというイタリアのパルマ産ニオイスミレを使用した紫色のリキュールが生まれた。いずれも「ニオイスミレの色と香りを写し取った酒」と称され同一のものと見なされる。世界に三百種ほど存在するスミレの中でもリキュールに使われるニオイスミレ(スイート・バイオレット)は、西洋産の園芸用に使われる種である。やや甘味の強いリキュールだ。
作品名:人生×リキュール パルフェ・タムール 作家名:ぬゑ