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人生×リキュール ドランブイ

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 相手がどんなことを言ってこようとも大丈夫です問題ありませんで面接を乗り切って、働き始めてから細かい要望を出して行こうと彼は画策していた。なにか言われようが、聞いてないって言えばいいしな。言った言わないの口約束なんて一番当てにならないことがわかってないなんて、中小企業の取締役なんてバカばっかだわ。大手企業ならしっかり書かせる誓約書なり労働契約書なりを面倒臭いからっつて用意してないもんな。そんなの後々突っ込まれたところで自業自得だろ。ぶははは。雇用されれば、こっちのものだからな。労働者の当然の権利ってやつだ。
 この不景気。いくらでも求人なんて転がってんだよ。今の時代は、雇う側じゃなく雇われる側にジャッジの権限があんだよ。ニヤニヤしながら車内に視線を滑らす。何人かと目が合って慌てて逸らされた。思っていることが口に出ているということに彼は相変わらず気付いていないようだ。



 202×年2月3日、晴れ

 面接に行った会社にまんまと潜り込むことに成功した彼は、意気揚揚と帰宅。
 帰りに奮発して買った焼き鳥と発泡酒で夕飯とした。首尾よく明日からの勤務を漕ぎ着けたので当分ハローワークとはおさらばだ。ぶはは。
 しっかし、どこも人手不足だよなぁ、と彼は発泡酒を呷りながらニヤつく。面接さえ行けば、ほぼ採用決定じゃねーか。ま、俺にとってみりゃ助かるけど。ぶはは。そんなことを口走りながら焼き鳥に齧り付いた。



 202×年2月6日、曇り

 新しい仕事は、二日目までは順調だった。年配の物静かな男性が、手順などを説明しながら一緒に廻る。腹が減っていないのに昼休憩だと言われた時は、疑問が浮かんだが、それ以外は比較的期待通りの仕事内容ではあった。
 そして今日、三日目だ。
 一人で廻らせてもらえないことに腹が立ったので「オレ、もう完璧なんで一人で廻れるんすけど」と先輩男性に食って掛かったところ、上司に呼び出された。使用期間中だからだなんだと説明を受けたが意味不明だったので、その場で「じゃあ、オレ辞めますわ」と最終手段をチラつかせる。上司は顔色一つ変えずに立ち上がると、事務所の扉を開けた。この会社もオレには合わなかったようだ。
 帰り道、例の男に出会った。
 相変わらずのだらしない恰好。今日は太宰治の「人間失格」。オレの愛読書だ。別れた元妻が大っ嫌いだと言った本。あの女は文学ってものがわかっていなかった。いや、そもそも夫としてのオレの価値すらわかっていたのか怪しいところだ。よりいい待遇を求めて転職してなにが悪い? あの軽蔑したような顔を思い出すだけで腹が立つ。それにしても、あのおっさんはもしかしたらオレと気が合うかもしれないな、と好感を持った彼は、シートの端に座る男に近寄ってみることにした。
 男の前に立って吊り革を掴む。間近で見ると、男の肩に散ったフケや目やに、洗濯していないだろう服が明らか過ぎて、だらしないと通り越し不潔という言葉しか浮かばない。ホームレスに近いんじゃね? と、彼がうんざりと視線を外そうとしたその瞬間、男の無精髭だらけの口許がにやりと動いたのだ。男の唇は、顔や手の乾燥した皮膚とは打って変わり、新鮮なタラコのようにやけに艶やかで、そこだけがなにか別の生き物のように見えるほどだった。その不気味な口が不敵な笑みを形作りながら「人間失格」を読んでいる。
 彼は慌てて男から離れた。動悸がしている。気持ち悪ぃ。なんだったんだ今のは。
 動揺を抑えようと、見間違いであることを祈りながら、男を振り返るが、まるでそこだけ時が止まってでもいるように男は不気味な笑みを貼付けたままだ。なんだあれ。ハローワークがある駅に着いた彼は逃げるように下車。モヤモヤを抱えながらパソコンに向かった。
 結局、その日のハローワークでの収穫はゼロ件。
 なんてこった。オレとしたことが全然集中できなかった。なにもかも、あの男のせいだ。彼は苛々しながら帰路についた。



 202×年2月8日、雨

 彼のハローワーク通いは続いている。
 面接の予約も何件か取り付けた。だが、なかなか採用決定とはならない。
 正社員を希望しているからだろうか。年齢や経験で引っ掛かることが多い気がする。どいつもこいつもわかってないと彼は苛立つ。オレがその気になりゃあ、できないことなんてありゃあしないってのによぉ。
 ハローワークの受付の姉ちゃんにちょっとちょっかいを出したら、偉そうな爺さんに注意された。ムカついたので、自宅のハローワークに切り替えることにしたらしい。


 202×年2月11日、曇り時々雨

 相変わらずのハローワーク通い。
 彼はだんだん腹が立ってきた。
 試しに今までちょっとでも働いた会社にメールを送ってみる。当たり障りない挨拶と辞めたことに対して反省してるかもしれないような内容で。もちろんハッキリとは謝らない。オレは悪くないからだ。どこも人手不足に喘いでいるはずだ。猫の手も借りたいと思っている超激務のブラック会社ばかり。タイミングが合えば、返信が来るかもしれない。ややもしたら一日二日だけでも潜り込めるかもしれない。彼は、そんな淡い期待を込めて送信する。


 202×年3月11日、曇り

 なかなか腰を落ち着けられる会社と巡り会えない彼。いくつかの会社に採用されて、何日か働いたりしたが、どこもおれにの肌には合わなかった。どこもかしこも、リスペクトできる人物がいないんだよなあ。
 メールの返信は、どこからもなかった。
 ハローワーク帰り、夕陽が影を引く道を彼がスニーカーを叩き付けるように乱暴な調子で歩いていると、横から誰かがぶつかってきた。
「ってーなあー」とぶつかってきた相手を睨みつけると、例の男が本を読みながら目の前を通り過ぎていくところだった。久しぶりに見た男の手にした本は、ドストエフスキー「罪と罰」だ。
 彼は、おいあんたと怒鳴って男の肩を掴んだ。
「人にぶつかってきといて、知らん顔してんじゃないよ」
 本から目が離れた男は耄けた顔をして彼を見返す。男の目やにだらけの黒い凹みからは感情のようなものが全く読み取れず、その代わりにブラックホールのような得体の知れない闇が渦巻いている。骸骨のような目だと彼は思った。
「・・・気付きませんで」
 しばらくして男の喉から発せられたか細い声は荒れ地に吹く空っ風を思わせた。男は彼を二つの闇の窪みからじっと見つめた後で、乾燥した唇をぎぎぎと音が聞こえそうな調子に開いた。
「・・・お詫びに・・・一杯ご馳走いたしますよ」どうぞと枯れ木のような手を横に向けた。
 どうやら男の家が近くにあるらしい。
 こんな近所に住んでいたとは驚きだ。彼は半ば気味が悪い気持ちに駆られながらも、自ら関わってしまったので後にも引けず男の誘いに乗った。けれど、一歩事に、この男がどんな家に住み、どんな生活をしているのかという野次馬丸出しの好奇心が沸き上がり、終いには嬉々として男の後を追ったのである。
 そうして男が足を止めたのは、廃墟同然のアパートの前だった。
 立ち入り禁止の札が揺れるトラロープを躊躇なく跨いで侵入していく男。さすがの彼も戸惑ったが、せっかくここまで来たしと思い直してロープを越えた。