人生×リキュール ドランブイ
ある男の日記からの抜粋。
202×年2月1日、晴れ
「ってーな!」
咄嗟に声が出た。足を踏まれたのだ。
踏んできたのは影の薄い初老の男。
腹を立てた彼の殺気立った視線は、けれど男には届かないようだ。男の視線は不安定に揺れ動いており、今にも崩れ落ちそうに見えた。なにか、精神を病んでいるのかもしれないと彼は察した。だとしたら、その手の輩は自分のことで精一杯で、他人に気を配る余裕などないのだろう。けれど、そんな相手の状態を憶測して怒りを納められるほど彼の器は大きくなかった。彼は、ねちっこく、やられたら必ずやり返さなければ気が済まない質である。なので彼は、男から目を離さずにじっと観察することにした。どうにか仕返しできるタイミングを伺うのだ。
そうして観察してみると、男はなんとも奇妙な恰好をしている。
まず靴がバカでかいのだ。ゆうに四十を越している。特注だろうか。彼は頭をひねる。デカい靴専門店でも、あんなデカさの靴、お目にかかったことがない。よく言えばチャップリンやミッキーマウス。コケティッシュに言えばペンギンのようにぺたんぺたんと歩いている。音から推測するに、恐らく靴の先っぽは空洞だろう。彼を踏んだのは真ん中から先にかけての部分。男の足が入っていない可能性があった。いや、それでもよと彼は半減しそうになった怒りを再び呷るために、今日のムカついたことを思い出していく。
なんせ、今日は勤めて三日目の職場を切れて午前中でブッちしてきたのだ。
あの女の先輩の物言いがいちいち鼻について腹が立った。女社長も気が強いばかりで全然大したことなかったしな。それでもオレは一生懸命やってたんだ。それをよってたかって訳解らねーこと言いやがって。
オレは、歳なんだ。こんな歳でスイスイ覚えられるわけねーだろっ!
できるわけねーだろっ!
オレの気持ちも知らねーで他の仕事でも同じだと? あの小娘がどれだけの仕事を経験してきたんだっつのーオレは責任のある仕事なんてまっぴらご免だっつーの。人をバカにするのもいい加減にしろってんだ。くそっ!
オレはこんなに義理堅くて、慈悲深いのにな。こんなに会社や社会の仕組みを理解してんのにな。報われねーもんだな。まぁ所詮、中小企業なんてあんなもんだな。こっちから飛んでせいせいしたわ。ぶはは。彼は首を傾げる。思い出したはいいが、怒りを呷るどころか逆に胸がすく思いすらしてきたのだ。やっぱ、社長が女って時点でダメだわ。権力を持った女ほど質悪いもんはないからな。そういう女、オレ大っ嫌いだし。オレには合わないね。彼は、へっと片方の口角を上げると、くだんの男に視線を戻した。
男は、皺だらけのシャツに首元が伸び切った毛玉だらけのセーターを合わせ、シミだらけのチノパンという、よく言えば田舎の教師風、悪く言えばだらいしない恰好である。白髪だらけの頭が小刻みに揺れるたびに、セーターの肩にふけが散る。持ち物は、本のみ。タイトルは、ミハイル・レールモントフの「現代の英雄」だ。
へぇ・・・なんだか知らねーけど、お堅いの読んでんだな、と彼は鼻を鳴らす。男は静かに本を広げると読み始めた。あまりに動かないのでまるで彫像にでもなってしまったかのようだ。そんな男を眺めるのに飽きた彼は、つい数時間前に自分が起こした騒動を思い出すことに神経を集中させ始めた。
それにしても、あの先輩風吹かせた小娘を黙らせてやったのには清々したな、と彼はにやつく。
オレの言うことを先輩面で次々と論破しやがって、鼻持ちならねー女だった。美人だからって調子乗ってんじゃねーよ。マジで。オレが話にならないから帰りますわって言ったら、慌てて社長に電話して、泣きそうな声で話してやんの。ざまあみろってんだ。滅多なこと言ったら俺が訴えるからな。いや、訴えるしね。その方があの会社のためにもなるし。ぶはは。つか、今日話すって言っといて上司が朝早い現場だかなんだか知らねーが不在だってことも訳わかんね。マジでふざけ過ぎてるだろ。だから、女が社長の会社なんてダメなんだよ。予定がわからないとか、有り得ねーわ。今時の言葉でいうところの飛んじゃうってやつ? こんな歳でも流行も押さえてる。ま、オレ、こう見えて割と常識人なんで。常識人なんで!ぶはは。心で言っているつもりが大声で口に出していることに彼は気付いていない。彼の周囲にいた乗客が気味悪そうな顔をして移動していった。
202×年1月30日、曇り
彼が六十代を通過した日。
つい四日前に採用されたばかりの会社を本日付で一方的に退職してきたため、再びハローワーク通いが日課となる。辞めたその足で寄った通勤ルート途中のハローワークが空いていて利用しやすかったため、定期が切れるまではそこに通おうという魂胆。
定期のことを考えた彼は、ちっと舌打ちをする。
先走って定期なんて買うんじゃなかったと後悔している。数週間前に、ここしかないなと直感した別の会社があったのだ。工場内での荷物仕分け作業だ。楽勝だと思った。勢い込んで定期まで購入した。ところが、働いてみたら案外ハードだったのだ。なにより働いている奴らがいけ好かなかった。古株だかなんだか知らないが無愛想過ぎる。
苛々したので、二日で辞めた。
定期が勿体ないので同じ路線で求人を探すことにした。待遇だ給料をえり好みする奴らが多いらしく募集は選り取りみどりで、仕事はすぐに見つかった。どうやら葬儀の仕事らしいがドライバーがメインらしい。今度こそオレにピッタリだ。定期も無駄にならないしな。そう思った。だが、蓋を開けてみると、これもまたなんだか違ったのだ。仕方なしに定期が切れるまでは、そこのハローワークに通うことにする。
自宅近くのハローワークの受付のババアに小言を言われてムカついていたので、ちょうどいい。ぶはは。
202×年2月2日、曇り時々晴れ
彼のハローワーク通い一日目。
幾つかの会社をピックアップして印刷後、窓口で問い合わせしてもらい、一件だけ明日の面接予約が取れた。運送の仕事だ。運転ができりゃあ問題ない。オレはトラックも運転したことがあるし余裕だな。ぶはは。
その帰り道、例の男と出くわした。
今日は足を踏まれなかった。男は、昨日と同じ恰好だ。持っている本だけがちがった。広げた本のタイトルは、ドストエフスキーの「地下室の手記」。昨夜の本は分厚かったが一日で読んだのかと、少し驚いたが、きっと年金暮らしの暇人なんだろうと思い直した。羨ましいことだ。明日の面接のことで気がそぞろになっていた彼は、その日はそれ以上男のことに気を止めることはしなかった。
なんせ、明日こそ彼が希望した通りの仕事につけるチャンスなのだ。
作品名:人生×リキュール ドランブイ 作家名:ぬゑ