人生×リキュール ドランブイ
アパートの中は、所々床が抜け、天井には穴が空いているような有様だ。
奥の部屋らしきところで動く微かな灯りを頼りに足下に注意しながら奥へ進むと、四方八方を本で囲まれた空間に出た。空間の中央で燃える蝋燭の側には正座した男が、膝に抱えた洋酒瓶の蓋を開けようとしている。彼は男の向かいに腰を降ろそうとしたが、毛羽立った畳の色が妙な色であることに気付きやめた。畳は吐瀉物と血便を混ぜたような不気味な色をしている。オレやべぇとこに来ちゃったかもと彼の中で後悔が頭をもたげる。
「・・・頂き物ですが、どうぞ」そう言って男が差し出してきたのは茶渋に染まった湯飲み。嫌々受け取って覗いてみると茶色い液体が鈍く光っている。鼻を近づけると、のど飴のような不思議な香りがした。なんだこれ。見ると、男はうまそうに喉を鳴らして呷っている。本で形作られた空間にウイスキーのような甘い香りが広がっていく。男が二杯目を注ごうとしている。彼の中で勝っていた不審感がとうとう好奇心に負けた。彼は怖々と湯飲みに口をつけた。
まずウイスキーの香りがして蜂蜜のような濃厚な甘さが口中に広がる。それからハーブの風味。のど飴のようだと感じたのはこれだった。だが、嫌いじゃない。むしろ好みかもしれない。これはと男に問う。
「・・・ドランブイ」
聞き慣れない酒名だ。もっぱら発泡酒派の彼に洋酒の類いはわからない。わからないが無知だと思われたくない彼は「あぁそれね」だとか「だろうと思った」だとか、あたかも知っているかのような返答をした。
「・・・これは、満足できる、酒、という意味を持つのです」男は噛み締めるように一言一言を発して彼を見つめている。
男の目があるべき暗い二つの窪みが、彼を見据えそして捉えている。蝋燭の火が揺らぐ。彼の背中に悪寒が走った。
「・・・あなたは、満足できて、いないようですね」
「な、なんだそれ。なんだよあんた。満足ってなんについてだよ。あんたの質問の意図が全くわからねぇんだけどな。もっとわかりやすく言ってくれねぇかな。この酒についてのこと? だとしたら、まぁ悪くないよ。嫌いじゃないね。オレの生活や人生のことを聞いてんなら、不満だらけだね。どいつもこいつも俺の才能が全くわかってない。俺みたいな物事を弁えてる常識人そうそういないっていうのにさ。そう、日々不満だらけよ。オレはこの歳なりにポジティブシンキングで努力してるのに、全然足りないとか不条理なことを言われてばかりでナンセンス!報われないわけよ。毎日本ばっか楽して読んで暮らしてるあんたには、まあわからねーかもしれないけどさ」
精一杯の皮肉を込めたつもりが、男には伝わらなかったらしい。男の様子は変わらない。彼は脇の下を冷や汗が伝うのを感じた。蝋燭の火が揺らぐ。
「・・・これを、差し上げましょう」
男はドランブイのボトルを彼に差し出しながら、人生を満足できる一本にと告げた。
帰れってことだろと判断した彼は、ドランブイを引っ手繰ると逃げ出すようにアパートを後にした。不気味な男だったが、酒をもらったから良しとしようと彼は前向きに考えることにした。
202×年3月12日、晴れ
かったるいので、彼はハローワーク通いを休んでゴロゴロしていた。
昼過ぎになってから、彼の住むマンションに警察が訊ねてきた。
彼に放火殺人の疑いがかかっているという。昨夜遅くに出火した廃墟から男性の焼死体が発見されたらしい。
そして、その現場から走り去る彼の姿を目撃した人がいたと言うのだ。
オレはやってない、なにかの間違いだと語気を荒くする彼の主張はしかし、警察には通用しなかった。強制的に連行されていく彼の様子を、朝日に照らされたガーネット色に輝くドランブイがじっと見つめていた。
※ドランブイ
スコッチ・ウイスキーをベースにし、イギリス産リキュールの中でも特に認知度が高いリキュール。ゲール語のdram(飲む)とbuidheach(満足な)を足した『満足できる酒』という酒名を持つ。ラベルに表記された、Prince Charles Edward`sには歴史的な由来がある。イギリスの王位継承戦争により王位継承権を主張していたチャールズ・エドワード王子が大敗し、三万ポンドの賞金首となってしまった際に王子をかくまいフランスへと亡命させたのが、スカイ島グレンモアの豪族マッキンノン家だった。その後、王子は感謝のしるしとして王家に伝わる秘酒の製法を記した文章を贈る。マッキンノン家はこれを家宝として百五十年ほど極秘扱いとして大切に保管してきたが、1906年に酒造会社の共同経営者となった折に商品化に踏み切った。たちまち人気に火が点き、英国上院の酒蔵に納品されるまでに成長した。そんなドランブイは、熟成十五年以上のハイランド・モルト・ウイスキーをベースに、約四十種類のスコッチ・ウイスキーがブレンドされている。ブレンドするウイスキーの質とハーブ香味とのバランスがドランブイの風味を左右するため、細心の注意を払うのだという。ウイスキーならではの奥ゆかしさと蜂蜜の濃厚な甘さ、ハーブのスパイシーな風味が特徴的で、ウイスキーが苦手な方でも挑戦し易くなっている。映画「カサブランカ」でお馴染みの俳優ハンフリー・ボガートもドランブイがお気に入りだったようだ。
スコッチウイスキーで割る「ラスティ・ネイル」や、アクアビットとステアする「ゴールド・ラッシュ」などのカクテルが有名だが、ドランブイそのものを味わうのならば、やはりロックやストレートが一番である。また、爽やかに楽しみたい場合はソーダやトニックで割ってもいいだろう。フルーティーなドランブイを楽しみたいというのならば、ウイスキーとオレンジジュースをシェークした「セント・アンド・リュース」がオススメだ。
作品名:人生×リキュール ドランブイ 作家名:ぬゑ