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人生×リキュール シャンボール

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 鮮血が重箱から溢れ出してくる。血は、私の心に溜まった汚れのようなコールタールを溶かし混みながら赤黒く迫ってくる。
 私は泣きながら懺悔する。
 お母さん!ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!

 週明け、トンボさんは時々物言いたげな視線を投げて寄越すだけで、話しかけてこようとはしなかった。
 好都合だ。私はこれ見よがしに、いつもより冷たい言葉で返答をする。
 自分が人として醜いということは充分わかっている。
 わかっていても尚遠ざけたい。傷つけてもいいから遠ざけたい。誰とも関わりたくない。
「おまえは締め切りって言葉を知らないのかー? おーい、どーしたー? 起きてるかー?」
 課長に顔を覗き込まれたトンボさんは、小動物のようにびくっと体を強ばらせた。寝ていたわけではなさそうだ。
「あ、あ、あの、申し訳、ありありあり・・・」
 もう蟻はいいっつーのと課長に小突かれたトンボさんの顔は真っ青だ。具合が悪いのだろうか。
 心配が過るが揉み消した。そんなことどうでもいいっつの。
 淡々と仕事をこなし、あっという間に一週間が過ぎてまた週末を迎えた。
 私は新たな隙間を探さなければ、いけなかった。
 せっかく気に入ってたのに、あの男に見つかったばかりにもう二度とあの隙間は使えない。舌打ちをしながら町を徘徊する。
 けれど、なかなかいいサイズの隙間は見つからない。
 夜が深まっていく。だだっ広い荒野を一人で彷徨っているような不安に襲われる。
 私は自分の人生なんて考えられない。これから先、死ぬまでずっと辛い時間の中で生きていかねばいけないのだろう。
「おまえなんて死ね。死んじまえ」声が木霊してくる。
 無気力になった体と思考を無理矢理動かして必死に考えた。
 今夜くらいあそこを使っても、あいつは来ないかもしれない。そうだ。こんな時間じゃ、さすがのアイツもうろついていない。そう。きっと大丈夫。私はお気に入りだった隙間がある方角に足を進めた。
 ところが、半月の光に照らされた隙間にはメガネをかけた男が挟まっていた。
「なに、やってるんですか?」
 私が聞くと、トンボさんはバツの悪い顔をしたあと、ちょっと微笑んだ。
「あの、挟まってみたら、その、居心地がよくて、つい」
 ズレたメガネを押上げる手には擦傷。
 私よりはるかに横幅がある彼は挟まるために試行錯誤をしたのだろう。糸が切れた操り人形のような恰好になっている。
 私もこんななのだろうか? 想像するとおかしくなった。
 バカみたいと声を出して笑い出した私を、トンボさんは呆気に取られて眺めていた。
 救出ーといったほうが適切だろう、されたトンボさんは、擦り切れたスーツを隠すように撫でながら、照れくさそうに笑うと、球形のガラス瓶を取り出した。
 ゴールドの帯とキャップが鈍く光って、中に入った濃い色をした液体が月に照らされて気持ち良さそうにちゃぷんと揺れた。
「あの、これ。その、よかったら、あの、飲みませんか?」そう言って隙間の奥からソーダのペットボトルが入ったビニール袋を引き摺り出してきた。中にはプラスチックコップも入っている。
 注がれた液体を口に付けると、焼き鳥屋で飲んだ『シャンボールフィズ』だとわかった。最近不眠が続いていた私の脳を華やかなオーケストラが取り囲んだと思う間にドレープが美しいドレスを着せられるような優雅な心地がゆっくりと染み込んでいく。
「これは、その、おじいさんにもらいました」トンボさんがオドオドと説明を始めた。
「あの、車イスに乗ったおじいさんが、その、おっかない人の足を踏んでしまったみたいで絡まれてたんです。それで、見兼ねて、つい、間に入りました。あの、もちろん、その、コテンパンにやられちゃいましたけど、でも、おじいさんがすごく感謝してくれて。その、お礼にって、あの、これをもらった次第なんです。あの、嘘じゃありません」
 トンボさんは目の脇にまだ残っている青あざをきまり悪そうに撫でた。そう言われてみれば、彼の顔の彼方此方に傷がある。
「それで、最近、その、元気がなさそうだったので。あの、差し出がましいとは思ったのですが、その、」
 確かにここ最近の私は不眠に手伝って、調子が悪かった。
 飲用している抗うつ剤を服用すると、頭がぼんやりしてすぐ眠りそうになってしまうので、飲めずにいる。あの夢を見るのがしんどいのだ。しんどくてしんどくて、たまらない。だから。
 それでも、仕事は休まずに行っている。デスクワークは集中していれば時間が過ぎるのが早いから睡眠防止にもなるし、暇なよりはいい。濃くなった隈を隠すためにコンシーラーやファンデーションを厚塗りし、ぶれない冷静キャラでいれば、誰にもバレることはないと思っていたのに。どうして寄りにもよってこんなヤツに。
「ご心配なく。睡眠不足なだけですから」
 睡眠不足とか言わなくてもよかったなと、直後に後悔した。そんな素直に言うだけ無駄だ。ガッカリするだけ。
 ところが、彼がしまったという顔をして、頭を抱えた。
「そう、なんですか・・・眠れないって、それ、辛いですね。あの、眠れない理由を、聞いてもいいですか?」
「答えなければいけませんか?」
「え、いえ、あの、無理には、その、なにかボクが力になれることが、その、あるかもしれないと、」
「ありませんよ。きっと」
 私の答えに、彼は、そそそそそうですよねと戦慄きながらガックリと俯いた。なんだか苛めたような気分だ。
「あの、余計なこと言って、あの、ほんとうに、その、すみません。ただ、ボクも以前、その、不眠症だった時があったものですから、それで、もしかしたら、少しでも、あの、なにかお役に立てないかと・・・」
「自分の経験は自分オリジナルのものです。それは、一つの経験としての実証例としては役に立ちますが、そのまま他人には適用できません。参考にする程度の実用性しかありません。なぜなら、人はそれぞれ違うから。なので、あなたの経験は私にはなんの役にも立ちませんし、参考にもならないと思います」
 トンボさんは、そそそそそそそそそうですよねと真っ青になって申し訳ございませんと頭を垂れてしまった。
「なので、心配ご無用です。ご馳走様でした」空になったカップを置くと、私は立ち上がって歩き出そうとした。
「あの、でも、ボク、その、思うのです。その、力にはなれなくとも、その、苦しみを共有することは、あの、できるのではないでしょうか?」トンボさんは、俯いたまま声を張り上げた。思いのほか力強い声だった。
「共有? どうして私が、あなたと苦しみを共有しなければいけないんですか?」嘲るような笑いが滲む。
「なにか、勘違いしてません? あなたと共有すれば、眠れない苦しみが軽くなるんですか? 悪夢をみなくなるんですか? 声が聞こえなくなるんですか?」バカらしいと吐き捨てた。
「・・・悪夢をみるんですか」トンボさんが恐る恐る顔を上げると、それに声も聞いているんですかと続けた。言い過ぎたと思ったが遅い。しらばっくれるのも面倒臭くなった私は、そうですけど? と自棄になった。