いたちごっこの、モグラ叩き
もっとも、マスゴミの質問は最低なものが多いのだが、それにしても、政府も国民が知りたいことをまったく説明しようとしない。
「説明責任を果たしていない」
というのは、前政権から言われていたことであるが、国家が非常事態においても同じことだった。
しかも、自分たちだけが知っていて、それを国民に共有しようとしないというのは、完全に国民を見殺しにしているのと同じではないか。
そんな政府と比較され、
「現政府の方がましだ」
と言われている野党も、相当なものだ。
こんなことでは、政権が変わることもない。要するに政府に危機感がないから、こんな政府が生き残る形になるのだった。
今の政府は、
「国民に選ばれた」
というわけではない。
「国民が政治を当てにしなくなったことによる、ある意味独裁と言ってもいいくらいの状態になっているのだろう」
日本は、憲法で守られているので、独裁国家になっていないだけだ。非常時の日本は、独裁国家よりもひどいかも知れない。国民を守ろうという気概が一切ないからだ。
そんな世の中で、人が死ぬ可能性として、まずは老衰などの、大往生と呼ばれる、寿命をまっとうした場合、さらには、病気などによるもの、さらに何かの事件に巻き込まれて、殺されてしまったりする場合、そして、突発的な事故によるものが、そのほとんどではないだろうか。
普段は死というものを意識しないであろうから、あまり考えることもないだろう。だが、年を取ってきたりすると、一番考えるのは、
「苦しまずに死に対」
という感情なのではないだろうか。
そういう意味では、苦しむような病気に罹ることを一番に考えるものなのかも知れない。
だが、あまり普段から考えない若者が、何かのきっかけで死というものを考えるとどうだろう?
普段は気にしなくても、自分の祖父母などの肉親が亡くなって、その葬儀などに出席すると、その場の粛々とした雰囲気から、今まで意識することのなかった「死」というものを嫌でも意識してしまうかも知れない。
普段考えていないと、たぶん、頭の中で考えるとすると、
「もし、自分が死ぬとすれば」
という意識になるに違いない。
そうなると、自分の年齢よりも一回り上の年齢を想像することはあまりないだろう。なぜなら、想像することが困難な未来を考えなければいけないからだ。
若者であれば、自分の年齢かも、三つ、四つくらい上までしか想像ができない。そうなると、考えたとしても。三十代までになってしまう。
そんな時、以前までは成人病と呼ばれていた、今でいう、生活習慣病と呼ばれるものによる死について考えることはあまりないと思われる。
もちろん、若い人もかかる可能性はあるが、普通は考えない。しかも、それらのほとんどは、苦しみを伴うものなどが多いため、さらに考えることを嫌うだろう。
何と言っても、まだまだ先に希望を残している若者が、そんなネガティブなことを考えても、ロクなことにはならないからだ。
つまり、若者であれば、考えることとすれば、
「まず、ありえないのは老衰。最初から寿命が三十代などということはありえないと思っているからだ。それ以外はすべてに可能性があるわけで、そうなると、結局は年を取ってから考えることとあまり変わらないだろう。
ということは、
「苦しまずに死にたい」
と感じることだった。
祖父母の葬式において、老衰であれば、葬儀の参列の人から声を掛けられるのは、棺の中の顔を見て。
「本当に安らかなお顔だ。苦しまずに死ねたことは、よかったんだろうな」
と言っていることだった。
葬式で、
「よかった」
などという言葉を言われて、
「葬儀の席で、何と言う」
とは誰も思わないだろう。
誰もが望んでいることである。、
「苦しまずに死ねた」
ということが、その人にとっての幸せだということであろう。
そういう意味では災害や事故などにおいて死んだ場合でも、
「即死」
ということであれば、苦しまずに死ねたという意味では幸せなのかも知れない。
ただ、事故や災害に遭わなければ、もっと生き続けられたであろうが、死というものがその人の運命として逃れられないものであるとすれば、苦しまなかったことは、本当の幸いだったと言えるのではないだろうか。
そういう意味で、事故で悲惨な状態で発見された方が、実は即死だったりする場合がある。人によっては、その死体の具合の悲惨さよりも、
「この人、苦しまずに逝けたのだろうか?」
と感じる方が多いかも知れない。
だが実際に、交通事故を目撃すると、その悲惨さや、飛び散った鮮血などを見ることで、
「交通事故にだけは遭いたくない」
と思うだろう。
この場合は、自分のこと以外のことを考える。
交通事故に限らず、災害であったとしても、突然に命を奪われたことで、
「これから、もっと幸せな人生が歩めただろうに」
と言われてみたり、
「残された家族がお気の毒で」
ということになるだろう。
家族という意味では、一番の最悪は、
「死にきれなかった場合」
もあるのではないだろうか。
事故の後遺症が残ったり、下手をすれば、植物人間になりかねない場合だってある。
生きている以上、身内の事情で、植物人間を殺すわけにはいかない。
「家族といえども、生殺与奪の権利はないのだ」
ということである。
ということは、どんなに生命維持にお金が掛かろうとも、生命維持のために、家族がその費用を負担しなければいけない。
「借金をしてでも、殺すわけにはいかないのだから、仕方のないことだ」
と、言い切れるのであろうか?
日本では、安楽死というのは認められていない。裁判でも、その時の事情で、判例も別れているので、殺人罪にならないと言い切れるわけでもない。そうなると、植物人間のために、その家族は人生を棒に振ることになるのだ。
これは、ひょっとすると、植物人間になった人も、意識さえあって相手にその意志を伝えられれば、
「どうせ、元に戻ることはないんだったら、このまま殺してほしい」
と思っているかも知れない。
生前に、遺言として、
「植物人間のように、自分の意志が働かず、家族に迷惑をかけることになれば、そのまま安楽死を望む」
という、安楽死ということに対して本人の意志があったとしても、絶対に安楽死を行った人間は、無罪だとは限らないだろう。
この問題は、かなりデリケートな部分が潜んでいるので、解釈が難しいが、少なくとも意識不明になって、、意識が戻る可能性がほとんどなく。元に戻るのが、常識的に無理であり、家族の負担が著しい場合は、一律に安楽死を認めてもいいのではないかと思うのは、危険なことなのであろうか?
道徳的にはそう思えるのだが、宗教的に、キリスト教の十戒にあるような、
「人を殺めてはならない」
という教えが古来から脈々と受け継がれてきているのであるから、なかなか、今の自制では全国民を納得させるのは難しいだろう。
ただ、安楽死の問題は、世の中で、
「避けては通れない問題」
であり、倫理、宗教、道徳、などを鑑みたうえで、リアルなその時々の情勢を、いかに組み合わせていくかが問題なのであろう。
作品名:いたちごっこの、モグラ叩き 作家名:森本晃次