トラウマの正体
「するかも知れないけど、私もお義兄さんの一部を好きになったんだけど、でも、表の部分もちゃんと分かっているの。あのお義兄さんには、そんな度胸はないわ。私にだって遊びだと思っているのか、いつも後ろめたさを感じているようなの。それも計算ずくで、だから私が後ろめたさを出しているわけではないのよ」
というと、
「なるほど、相手をけん制しながらだから、別れを切り出せば、少しは抵抗があるかも知れないけど、すぐに冷静になると思っているのね?」
「うん、そう。熱しやすく冷めやすいのが、お義兄さんなのよ」
と、ちひろは言った。
ちひろのいうことは間違っていなかった。ただ、表現が少しだけ無難なだけ。
「本当は飽きっぽいだけなんだけどな」
ということであり。それが、却ってちひろのプライドに火をつけたのかも知れない。
本当は、
「そろそろ潮時なので、別れることにするか」
と思っていたちひろだったが、それは泰三にとっても同じだったようで、せっかくそのまま別れていれば、後腐れがなかったものを。ちひろが、泰三をさらに引き付けた。
それまでとはまったく違った雰囲気を醸し出したことで、飽きっぽい性格の泰三が覚醒したようだった。
飽きっぽいということは、逆にいえば、
「飽きるまで、徹底的でありブレない」
ということでもある。
そんな彼が飽きそうになった時、その同じ相手が絶妙なタイミングで違う魅力を見せてくれれば、さらに深く入り込んでしまうのだった。
お互いに相手を打ち消そうと最初は考えたが、それが結局はできなかった。
先手必勝だと思っていたくせに、相手に先に行かれないようにと身構えてしまったことで、お互いにそれ以上積極的に慣れなくなってしまった。
これは、何かどこかで聴いた話を思い出すのだった。
「そうだ、二匹のサソリの話」
泰三は、核兵器の抑止力のたとえ話にされる、
「二匹のサソリ」
を思い出していた。
「自分が相手を殺す力を持っているのに、相手も自分を殺すことができる。相手を殺そうと先に動けば、自分も一緒に殺されてしまう可能性が実に高いのだ」
つまりは相打ちになる可能性が高いことで、睨みあってしまうと、自分から仕掛けることはできない。唯一の戦法とすれば、相手に最初に撃たせて、それをうまくよけながら相手の背後に回って、急所を一撃にするしかない。
それだけの度胸があるだろうか。
ちひろは、泰三が最初に動いたのを見て、相手の動きに感づいたことで、ちひろが攻撃をかわすかのように、泰三の感情を擽ったのだ。
これは泰三の気を引こうとしたわけではなく、泰三を自分の射程距離から離さないようにして、
「もし、殺すことができなくても、相手の動きを止めることができれば、自分に勝機がある」
と思ったのだろう。
お互いに相手を殺すことしか考えていないサソリなので、どちらかが、
「殺されないようにしよう」
と考えたとすれば、そこで動きが変わったことになる。
将棋で一番隙にな布陣は何かと聞かれて。
「最初に並べた形なんだよ。一手打つごとに、そこから隙が生まれる」
と言っていたのを思い出した。
もし、殺されないようにしようと気持ちが変わったのであれば、相手に付け入る隙を与えてしまったことになる。後は自分が後手に回ってしまうということであり、せっかくの、
「二匹のサソリ」
という均衡が破れることになる。
だが、結局のところ、
「二匹のサソリは二匹のサソリ以上でも、それ以下でもない」
完全に抑止力のための均衡でしかない。
その均衡はいつになったら崩れるのか、時間が解決してくれるものなのか、まったく分からない。
「歴史が答えを出してくれるのだろうか? いや、すでに答えは出ていて、そのことに気づいていないだけなのか?」
つまりは、歴史の勉強の究極はそこに至るということである。
「どれが答えなのか?」
ということを知るには、歴史すべてを知る必要がある。
それはまるで底なし沼のようだ。入って見なければ、最後に行き着く場所など分かるはずもない。死の世界を知りたければ、死ぬしかないという理屈と同じなのではないだろうか。
考えてみると、ゆかりとちひろの二人の比較をしたことがないと思っていた泰三だったが、実際には最初から比較ばかりしていて、その対象が何であったのかすら分からなくなってしまっているような気がした。
感覚がマヒしてしまったからであって。それこそ、考えすぎて、飽きてきたのではないかと思えたのだ。
別れることができなかったのは、
「似ているわけでもない二人を、自分の中で似ている二人だということを納得させることで、不倫への正当性を持たせようという理屈になっていたのかも知れない」
と考えていた。
ところで、どうして不倫に手を染めてしまったのかというと、やはり、新婚生活に幸せを感じすぎて、幸せそのものにマヒしてしまっていtあのかも知れない。
「平和ボケ」
と言ってしまえばそれまでなのだが、そこには自分の最大の短所である、
「飽きっぽい」
というところがあるのだろう。
それを、別の意味で解釈し、
「熱しやすく、冷めやすい」
という表現をした、ちひろに惹かれてしまったのも、無理のないことなのかも知れない。
しかし、泰三を含めた他人に対して、高圧的な態度を取り、人に何かを任せることはせず、絶えず自分が中心に居座るという態度を一環させていた。しかも、それをまわりから疎まれないという彼女にとっては、再考に都合のいい性格だと言ってもいいのかも知れない。
しかし、姉にだけは頭が上がらないようだ。そして感じていることは、
「姉との間に年齢以上に差を感じてしまう。私は姉には逆らえないんだ」
という思いが、反動となって他人への態度になるのだが、泰三との間にだけは、ジレンマを感じているようだ。
ちひろは、ゆかりに対して、自分のことを、
「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」
と感じていると思っている。
しかし、ちひろは、他人に対して、
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」
と感じているようだが、泰三に対してだけは違う、
「鳴かぬなら 鳴かせて見せよう ホトトギス」
と感じているようだ。
その感覚が、高圧的な姉が、本当は自分のことを自分が泰三に感じている思いと同じことなのだと感じることができないことが、一番の問題であり、トラウマになっていることだろう。
泰三が、この不倫から逃れられるかどうかは、ゆかりの思いをちひろが理解できるかにかかっている。
そのためには、泰三自身の中で、ちひろに感じているトラウマの正体が何であるか、それを知る必要がある。
そのトラウマとは、やはり、
「二匹のサソリ」
という事情が、ジレンマを引き起こしていて、身動きが取れない原因になっているということであろう。
( 完 )
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