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人生×リキュール サザン・カンフォート

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「辛いよね。わかるよ。仕方ない仕方ない。だって無理なもんは無理だもんね」さらっと慰めてくれたことに救われた。誰も口にしてくれなかった言葉を、当たり前のように言ってくれる。彼にはそれだけで充分だった。
 個人的に食事に誘ってベッドインするまでに大して時間はかからなかった。
 年若い恋人は、彼の頭を優しく抱きかかえて撫でながら、大丈夫大丈夫と耳元を甘い息でくすぐる。
 恋人の温かく豊かな胸に包まれた彼は、まるで子どもに還ったような安心感を得て深い安堵の息をつく。そして、ますます演技に熱が入らなくなり、坂を転げ落ちるようにして撮影をすっぽかすようになってしまった。
 マネージャーと事務所からのおびただしい数の不在着信に混じっている元妻からの着信履歴を見つけたのは、例によって恋人の家から帰宅した朝だ。
 スマホ画面に表示された懐かしさすら感じる妻の名前からは、彼女が持つ凛とした百合のような気配が漂っている。
 彼は小さく息を飲んだ。
 妻とは、同じ大学の演劇サークルで知り合った。
 はにかみ屋の美人だが、笑った時の無邪気な顔が最高に愛らしく、ほとんど一目惚れに近い形で彼から交際を迫ったのを覚えている。卒業後も交際は続き、彼が劇団から引き抜かれて芸能事務所に所属が決定した際に、籍を入れたのだ。
 自分には演技の才能はないのだと演劇を諦め、高校生から続けていたモデルに本腰を入れ、着実にキャリアを積み始めた多忙な妻との結婚生活はすれ違いそのものだったが、互いに夢を実現させるべく疾走している姿を認め合える理想の形だと彼は信じていた。相手に期待するがゆえに喧嘩ばかりしていた父母のような夫婦ではない。お互いを尊重し合える理想の夫婦だ。いくら二人で過ごせる時間が少なくても、彼は幸せを感じていた。ところが、
 妻が離婚届けを差し出したのは、折しも数ヶ月前にクランクアップした初主演映画が、アカデミー賞候補としてノミネートされた告知を受けた日。
 興奮と混乱に同時に襲われた彼はしかし、努めて冷静に妻がカウンターに置いた離婚届にサインした。
 サインしようとした際に、妻から「理由を聞かないの?」と問われたが、今更なにを聞いたところで何かが変わるわけでもないだろうこと、理由を聞いた彼がどんな反応を示したとしても妻は離婚を覆す気は毛頭ないのだろうことが、彼を真っ直ぐ見つめる彼女の瞳から見て取れたので、おもんぱかった末に、首を横に振った。
「私、あなたの演技好きよ。これからも応援してるから」がんばってねと締めくくる妻の言葉に、彼はうんとかすんとか歯切れの悪い返事を蚊の鳴くような声を絞り出して大きな溜め息をついた。彼の精一杯だ。
 そうして、妻は出て行った。
 生活用品が一人分減っただけなのに、手狭だと感じていた部屋が、急にがらんどうになったようだ。
 よそよそしい風景。やけに響く一つ一つの音。
 カウンター端に寂しく佇んでいるのはサザン・カンフォートの飲みかけのボトル。妻が、どこぞの通りすがりのジジイからもらってきたもので、美味しいからとお気に入りになったものだ。
 帰宅すると出かけたままの空気が静かに蟠っている無人の部屋になんとなく帰りたくなくて、誰かと蔓んで飲み歩く日々が続く。妻がいた頃にしても在宅していることのほうが少なく、いてもいなくても気にしなかったくせして。
 妙なものだなと我ながら失笑してしまう。
 Xの映画出演のオファーが舞い込んで来たのは妻に出て行かれた直後だった。
 喪失感を抱えたばかりの彼は、どんな反応をしていいのか困惑して曖昧な笑みを浮かべただけだ。けれど、今をときめくXからのオファーは、彼の俳優人生における、最大にして最後のビッグチャンスだ。所属事務所は大喜びだった。
 俳優としてやっと油が乗り始めたんだね、長かったなぁと彼の隣でマネージャーが我がことのように目を潤ませているのを横目に、どこか他人事のような気がしたのだ。そんな気持ちだから、この体たらくな有様なのだろう。
 彼は、画面を睨みながらしばらく逡巡すると、鼻で小さな溜め息をつきながらスマホをカウンターに置いた。
 それから同じカウンターの端にあるサザンカンフォートを引き寄せると蓋を開ける。
 瑞々しいフルーツの甘い香りが広がった。次いで棚から取り出したタンブラーにサザンカンフォートを注ぎ、トニックで満たして一気に呷った。朝帰りで乾いた喉をピーチ風味の炭酸が駆け抜ける。よし。彼は何度か深呼吸をするとタンブラーを置いてスマホを取り上げ、発信表示をタップした。
 呼び出し音が何度か鳴った後、もしもしと耳障りのいい妻の声が出た。
 屋外にいるらしく、彼女の声の向こうからさざ波のような喧騒が聞こえる。
「久しぶり」
 生唾を飲み下したのは、決してジルスチュアートの残り香が鼻をついたからではない。妻の語尾にいささか力が入っていると感じたからだ。それは、苛立っている時の妻の癖だった。現在の自分の状況が状況なので、かけなきゃ良かったなと後悔が冷や汗となって脇を伝う。呼吸が浅くなっていく。
「ねぇ最近どうしたの?」
「なにが?」動揺を悟らせまいと冷静を装って低い声を出す。
「撮影、行ってないんですってね?」ぐっと息が詰まり、次いでやっぱりかと耳が受話口から離れる。マネージャーから連絡がいったんだ。
「君には関係ないだろ」切り札のようなその台詞は効果抜群で、彼女はぐっと息を飲んで押し黙った。
「・・・そうね。確かに、もう他人の私には関係ないわね」だろ? とそっけなく返すと、深い溜め息が聞こえた。
「前にも言ったと思うけど、私はあなたの演技が好きなの。だから、いちファンとして言わせてもらうと、あなた、ほんとうに今のままでいいの?」いいさ充分満足だよと彼が冷たくあしらうと、彼女はダメよと食い下がった。
「いいわけないわ。あの有名なX監督の映画なんて、一世一代のチャンスじゃない。絶対、ものにすべきよ!」彼女の語尾に力が入る。
「おれの気も知らないくせに、勝手なこと言うなよ!簡単じゃないんだ!」思わず声を荒げてしまった。少しの沈黙のあと、彼女は「お兄さんのこと?」とまるで内緒話でも打ち明けるような調子で聞いてきた。
「兄が、なんだよ」彼女が息を吸う音が聞こえた。
「あなたがむきになるのは、お兄さん絡みのことだけだから」彼女の推測は図星だったが、認めたくない彼は、そんなんじゃないと否定した。
「兄は関係ないし、例えそうだったとしても君にはもう関係ないだろ」
「そうね。確かにその通りだわ。でも、お兄さんのことがあろうとなかろうと、逃げないで向き合って欲しいの。そして、乗り越えて欲しいのよ!」
 あぁそうだ。彼女はこうやってストレートに切り込んでくる性格で、おれも認めない質なものだから、結婚してから頻繁に喧嘩をしていたっけなあと今更のように思い出した。