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人生×リキュール サザン・カンフォート

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一度も止まらずに、幾つかの青信号を通過した後に、今日が祝日だという事実に気付いた。
 平日ならとっくに車が犇めいているはずの道路。時間帯。なのに、車の影はない。祝日かあと彼は思った。めでたいことなんてあったけかあ? とも。
 ハンドルを握る手に若干の苛立ちが滲む。朝日に照らされた早朝の道路はどこまでも真っ直ぐだ。口許の髭を撫でた手首から香水の残り香がする。
 ついさっきまで腕枕してやっていた年若い恋人がつけていたジルスチュアート。男受けを狙った清楚な香りを纏うケツのような乳をした女。昨夜の濃厚な営みが思い出され目尻が下がる。
「もう、帰んの?」それが先に口から出て、次いで長いまつ毛に縁取られた目を開けた恋人。
「なにか用事でもあるの? なければ一緒に過ごそうよー」アヒル口を尖らせて甘えてくる。いいんだ。別に。そういう女は嫌いじゃない。けど、
「今日、通し稽古、あるからさ」ふーん・・・と猜疑の眼差しを振り切って、彼は恋人の部屋を飛び出した。
 見ると、赤信号だ。誰かが歩行者横断用押しボタンを押したのだ。
 仕方なく止まると、髪の短い女が面倒臭そうに横切っていく。女は通過する刹那、不機嫌そうに眉間に皺を寄せた彼に一瞥、いや睨め付けた。ような気がする。
 彼は、舌打ち後にバカにしたように間延びした溜め息をつくとアクセルを踏んだ。
 自宅のマンションに到着した時にも、先程の白目が勝った女の視線が突き刺さって抜けない。彼は再び舌打ちをする。
 見ず知らずの女の目は離婚した妻に似ていた。

「カットカット!」
 苛立ちが手に取るようにわかる鋭い声が飛んで来て、彼は思わず身を強ばらせた。
「ダメダメダメダメ!なってねーんだよなぁーそうじゃねーんだよ!」
 壊れたように首を横に振るメガホンを握った中年男。この映画の監督だ。その何度も繰り返されてきた鬼気迫る光景に、彼は怖々体を起こした。
「たーだ台詞を言やぁいいってもんじゃねーんだよなあぁぁーお遊戯会じゃねーんだからさぁー昨日今日始めた初心者じゃねーんだからさぁー呼吸から変えんだよ!わっかんねーかなぁー!」監督は苛々と頭を搔き毟る。
 今、最も注目されている映画監督X。
 斬新かつ新鮮な視線で捉えられた映像と、今までにない展開をするストーリーが日本のみならず世界からも高い評価を得ている。彼が作る映画は、一度見ただけで引きずり込まれる中毒性の高い世界観が特徴だ。
 Xの映画に出演した俳優達が、以降、実力派俳優として数々の賞を総舐めにしたことが話題となり、彼の作品に出ればレッドカーペットが約束されているというジンクスまで生まれていた。
 恐らく、気性の荒いXにスパルタで叩き込まれるためであろうが、制作発表があるたびに各芸能事務所がどうにか自分のところの俳優を使って欲しいとあの手この手でXにごまを擦ると聞いている。だが、職人気質のひねくれ者として有名なXは、それらを全て撥ね除け、自分が最良と思った人選をする。
 彼は、そんな誰もが憧れるXの新作映画出演という、まさかの大役を射止めたのだ。
「知っての通り、今回の映画は全員ベテランの域に達してるってことでオーディションなしで採用を決めたんだからさぁー!そこんとこ!いっちいち言われなきゃわっかんねーかなあ?」あぁんとまるでヤクザが眼垂れるような顔で答えを求められた彼は、精一杯の笑みを浮かべて、それははい充分に、と変に上擦った声で返事をする。だったらさーと監督の声が一段大きくなる。次の言葉を、彼を含めたスタッフ全員が首を竦めて待ち受ける。
「もっと真剣にやれよ!呼吸!」
 監督の言葉は、ごもっともだった。
 恐らく監督だけでなく、彼の演技を目の当たりにしているスタッフは漏れ無く感じていることだろう。なーんだ。主演男優賞を期待される俳優とかいっても、所詮こんなもんなのかぁと苦笑している。そんな雰囲気が細かい細かい刺になって常にチクチクと刺さってくるのだ。
 監督に言われなくても重々承知している。演技に身が入っていないのは。彼は、この役をなかなか掴むことができず、役自体に戸惑っていた。
 役の呼吸は疎か、自分の役を受け入れてすらいないのだ。
 彼の役は、愚か者。
 そう言う名前の役ではない。あくまでも彼が勝手にそうつけただけだ。
 正確には、人、特に女に散々利用されて貢がされて捨てられる男の役だった。
 相手の女がどんなに淫乱女であろうとも、裏切ろうとも、傷つけようとも耐え忍び、ひたすら捧げる。
 首を垂れて猫背の内股ぎみに歩き、話す言葉は必ず吃るか噛む。鳥の巣のような頭にニキビ面の小太りの体格。ぱっとしない服装、困ると鼻糞を掘り始める癖がある。すぐ泣くような臆病で、女のような金切り声で悲鳴を上げる。
 それまで二枚目の爽やかなイケメン俳優として売ってきた彼が演じてきた役とは真反対の人物像だった。
 いくらバカにされても、唾を吐きかけられても、一文無しになろうとも、彼女のために尽くす愚かな男。
 有り得ないことだと彼は思う。この男は、頭が足りないのだろうかと。
 そんなクズみたいな男の呼吸なんてと嫌悪する自分が、いる。仕事だと割り切ろうとしても、どうしても演じ切れない。
 どころか、演じるのが苦痛な時すらあるのだ。なぜだろう?
 この役の男が大嫌いだった兄に似ているからかもしれない。
 悪い女に捕まって散々利用された挙げ句に借金を肩代わりさせられてしまい、とうとう東京湾に浮かんでしまった哀れな兄。
 感性が豊かで情にもろく泣き虫で、でも一回り歳の離れた弟思いだった兄。
 そんなバカ正直過ぎる兄が嫌いだった。
 俺は兄のような愚鈍で情けない男にはならないと誓った遠い日。だからだろうか。どうしても役になりきれないのは。
 一挙手一投足ごとに亡き兄が、炙り出されるようなのだ。
 鼻息の音が耳障りでうるさかった兄が、この役になりきろうとすればするほど鮮明になる。
 彼は謂わばそれを拒否していた。
 毎回のように現場に響き渡るXの怒声と暴言を一番受けていたのは彼だと言っても過言ではないだろう。
「ちがうちがうちがうっ!そうじゃねーよっ!何度言わせりゃあ気が済むんだよっ!やる気ないなら辞めろよ!」
 すみませんと頭を下げる彼を、最初は哀れみの目で眺めていた共演者たちも最近は露骨に眉をひそめる。またかよと呆れた溜め息をつく。何度も何度も、いい加減にしろよと無言の圧力と怒りを色とりどりに織り込んだ呼吸。
 それでも彼の演技にOKは、出ない。なかなか出なかった。
 お陰で、クランクインして半年が経ったというのに撮影は要として進まず、苛立ちは監督だけでなく出演者やスポンサーにまで伝染し始める。このままじゃマズい。
 彼は焦っていた。が、焦れば焦るほど、こなさなければいけない役と実際の彼の演技との矛盾の淵はどんどん深く広くなっていく。
 ・・・そもそも、おれには向いていない役なんだ。
 時代劇俳優がハリウッドのアクション映画に出演する違和感と同じ。人には得手不得手がある。言い訳は彼の中で日を増す毎に増え、更に膨らんでいった。
 若い恋人ができたのは、彼の降板が囁かれ始めた頃だ。
 恋人は行きつけのキャバクラで働いている。