Reaper
わたしが言うと、法子はジュースの缶を大切そうに持って、首を横に振った。
「ママも、好きであの色の服を着てるわけじゃないんだ。なんか、運気がいいんだって」
「へー、そんな理由なんだ。似合ってるなら結果オッケーじゃない?」
わたしが言うと、法子はジュースとも相談しながらようやく納得したようにうなずいて、まだ言いたいことが少し残っていたようだけど、とりあえず笑顔になった。
「そうだよね」
二人でジュースを飲んで、お菓子を食べて少し時間が経ったとき、学校でしていた話の続きが、お母さんの『今日はありがとうございましたー』という声で中断された。法子のママのパーマが終わったのだ。
「一緒に帰るの?」
わたしが言うと、法子はうなずいた。ジュースの包み紙をふたりでゴミ箱に片付けているとき、法子が言った。
「お母さん、よく言うんだよね。教えを守っていれば、極楽にいけるって」
さっき、続けて言いたかったことかな。わたしは笑わないように気をつけながらうなずいた。そりゃ、ダブル数珠だよ。どっちかが効くに違いないよ。
― 現在 ―
その日を締めくくるお客さんは、いつだって特別だ。予約の十分前に扉がガラガラと開く音がして、鈴がちりんと鳴った。わたしはお香を焚きながら、振り返って言った。
「お待ちしてました、なんてね」
「大人気だね。いつもいっぱいだよ」
そう言うと、法子はできる限り休日仕様におめかしされた髪を揺らせながら、笑った。わたしはお茶を淹れると、音楽を法子が好きなやつに変えた。笑っている間は昔のおっとりした面影があるけど、やはり法子は全体的に疲れている。紹介で入れてもらったブラック企業で、もう三年目。ほとんどの社員が三カ月で音を上げるような会社で、法子の場合は特に二年目が大変だった。わたしは常に心配していて、そのピークは二年目に突入して三カ月が過ぎたころ。愚痴を言い合う最後の同期が辞めてしまったときだった。
『もう、私だけだよ』
電話越しの言葉は、肺に残った最後の息を吐き出したようで、週末が近かったからいつものカフェに誘ったけど、法子は初めて『うーん、ちょっと寝て過ごすかも』と言ったのだ。話したいオーラだけは残っている気がしたから、余るぐらいの食材を持って行って料理し、振舞った。そのころは眼鏡をかけることすら億劫な様子だったけど、今の法子は、お茶の湯気で細いフレームの眼鏡が曇っているし、それを楽しんでいるようにすら見える。
「直接言ってくれたら、枠を空けるのに」
わたしが言うと、法子は眉をハの字に曲げて首を横に振った。
「他のお客さんに悪いよ」
「友達だからいいんだよ。冗談みたいな商売だし」
わたしが言うと、法子は首を横に振った。
「そんなことないって。自分の店を持ってるんだよ。すごいと思う」
「まあ、お互いさ。こんな風に人生が進むなんて、思ってなかったよね。常に明日が終点って感じだった」
わたしが言うと、法子はうなずいた。
「由美と高校で別になっちゃったときは、もうどうでもいいやって思ったよ」
わたし達は、会うたびにこの話を繰り返す。消去するスイッチがあって、毎回話し終えたらお互いがそれを押しているように、何度でも。おそらくそれは、環境が変わっても根っこの部分では同じことを考えているという、証明になるから。
法子と会うと、初詣のときに敷居をひょいと飛び越えた後で、こっそりスニーカーの爪先で触れていたことを思い出す。その些細な反抗が罪悪感となって追いついてきたのは、大人になってからだった。この年になっても覚えているのは、そこが人生の中で一番安心できる時期だったから。振り返れば何とでも言えることだけど、結論はいつも同じ。内藤家と仲町家は、お互い距離を置いているのが一番だった。しかし、わたし達が仲良くなってしまったのだから、いずれ接点を持つのは、避けられないことではあった。
それでも、法子ママとうちのお父さんは、決して会ってはいけなかったのだ。
― 十年前 ―
「お母さん、教えを守らないと極楽に行けないって」
細いタバコを持つ細い指が、震えている。ちょうどいい距離感で並ぶ公園のブランコは、もう一時間ぐらい座って動かないわたし達の相手を嫌々しているようで、あちこちギシギシと軋んでいる。もう子供じゃないんだから、さっさと下りろということなんだろう。
法子の言葉は、発する度に本人を刺しているようで、その指は煙草を松葉杖にしてようやく正気を保っているみたいだった。
「ほんと、最悪じゃない? 不倫じゃないだけ、まだマシだったかな」
わたしが言うと、法子はうなずいた。法子ママには、娘に何も言うことなく、静かにのめり込んでいた『教え』があった。法子パパは何も言えないまま同じ数珠を巻き、ただ家庭が少しずつ崩壊していくのを、新聞越しに毎日確認するだけだったらしい。
おかしなことになってきたとき、人間の性格が出る。仲町家は日常を無理やり演じることを選んだ。家からはお金が溶けるようになくなっていき、それは仲町家の間では『寄付』と呼ばれるらしい。法子は中学校を出るぐらいから、うんざりしたような表情が板についてきた。法子パパの兄が頑張って、両親を正気に戻そうとしているのだという。
「もう、心配しても無駄なのかな」
法子が言い、わたしは言葉に出さずにうなずいた。高校に入って、本当の自由を手に入れた。カラオケボックスの隅っこや、先輩の家。町中に居場所ができた。店の変化に気づかなかったのは、無意識に気づくことを避けていたからなのかもしれない。ローラーボールと呼ばれる、パーマをかけるためのヘルメットみたいな機械。三台あったのが、いつの間にか一台になった。美容室の規模が少しずつ小さくなり、お母さんとだけ話していたわたしは、本当に気づかなかった。そして去年、親戚の葬式でばたばたしているときに、普段は入らない部屋で見つけてしまったのだ。法子ママがつけているのと、同じ数珠を。
わたしはすぐに、お母さんに訊いた。数珠のことを知らないはずはないから。返事は、まるで懺悔のようだった。わたしが高校に入る前から商売はほとんど成り立っておらず、法子ママから『寄付金の一部』を融通してもらったらしい。それが助け合いの精神だと。決して不倫とかではなく、お父さんは『教え』に助けられて、何とかバランスを保っている状態だった。助けられたのだから、今度は助けないといけない。仲町家の数珠ママ、内藤家のハサミマスター。いいコンビだ。
「最後のローラーボール売ったら、看板変えないといけないな」
わたしが言うと、法子は首を傾げた。
「パーマかけるやつ?」
「そう、パーマできないのにさ。看板に書いてあったら……」
そこまで言ったとき、息ができなくなった。ブランコの軋む音が鳴り、法子が身を乗り出したのが分かった。
「私が、お店にママを呼ばなかったら良かった」
「違うよ」
わたしは即座に否定した。
「あの人たちは、大人なんだから」
無理やり突き放した他人行儀の言葉が、決まったトスのように宙に浮いた。わたしは小さく息をついて、法子の方を向いた。