Reaper
「多分だけどさ、わたし来月から叔母さんのところに引っ越すんだ。ちなみに、法子の家から近い」
「どうして?」
法子が目を丸くした。わたしはその目をまっすぐ見返すことなく、笑い飛ばした。
「お父さんは、わたしを入信させたいらしいの。今日こうやって外にいるのは、お母さんがそうするように言ったから。無理やり車で迎えに来るとこだったらしくてさ。ちょっと危なかったんだ」
沈黙が流れて、上から真っ黒な布を被せられたみたいに静かになった。ブランコのチェーンが引っ掛かってばちんと音を鳴らしたとき、法子が言った。
「うちは、伯父さんが間に入ってくれてるけど、パパが出て行く形になると思う」
「そんなんでいいんだ?」
わたしが足元を見つめながら言うと、法子は手元で灰になりつつある煙草を地面に捨てて、笑った。
「いいわけないよ。でも、大人なんだから好きにしたらいいよ。もう、顔も見たくないな」
わたしは、その横顔を見ながら思った。法子は随分と強くなった。少なくとも『由美ちゃん、助けて―』とは言わないだろう。
― 現在 ―
法子の体は、あちこちが悲鳴を上げている。一応、本業は整体師だから、体に触れればどこが傷んでいるかは、すぐに分かる。
「痛っ、痛い痛い」
法子が笑いながら身をよじり、わたしは言う。
「効いてるんだよ。もうちょっと我慢して」
ずっとデスクワークをしているから、血の巡りは最悪だ。わたしも休日は出不精だから人のことは言えないけど、過労によるダメージは一度染みつくと中々取れない。そんな法子の『由美ちゃん、助けて―』は、それを最後に聞いた中学校時代から十年以上が経ってからだった。数年前。あの、食材を持って走った日。法子は本当に、限界だったのだと思う。お酒を少し飲んで、ようやく普通に話せるようになったとき、わたしが漫画のようにネギが飛び出した袋を持って走ってきた姿を思い出したみたいで、法子は笑い出した。
『どうして、こんなに心配してくれたの』
『用事がないけど無理っていう断り方は、今までなかったから』
多分、そんな会話を交わしたと思う。数か月後に法子と相性の悪かったパワハラ上司が転勤になり、代わりに違うタイプのパワハラ上司がやってきた。ちょうど、わたしが店を開いたころだ。
法子とわたし。話が合う最小単位。わたしはお母さんとずっとやりとりをしていたけど家に戻ることはなく、大学での下宿からそのまま一人暮らしを始めた。在学中に、ずっと体を壊していたお母さんは病死し、葬式で久々に再会したお父さんは、頭の中身を全て寄付し終えたような見た目で、『教えが大事だ。神様は、おれたちなんて見ていない』と言った。
わたしは違うと思う。もし神様がいるとすれば、その間に誰かが立ちはだかったことで、姿が見えなくなっただけだ。お父さんは決して強い人間ではなかったし、本当の神様がすぐ後ろにいても、探すだけの元気は残っていなかったのだと思う。その姿を見て初めて、遠い存在になってしまったということに、納得できた。そうやってお父さんがわたしの人生から出て行ったのと入れ替わりに、お母さんの私物の中にあった『のびのび坊主』は回収されて、わたしの手元に帰ってきた。
頭で違うことを考えている間に施術が終わり、法子がベッドの上に体を起こすと、目を丸く開きながら首を左右に傾けて、言った。
「ありがとう、体が軽くなった。また、ハーブを分けてもらっていいかな」
わたしはうなずいた。お土産代わりに、部屋で焚けるようハーブを渡している。あらかじめまとめておいた袋を渡すと、法子はそれを丁寧な仕草で鞄に入れた。
「いただきます。ねえ、今日の言葉は?」
わたしは苦笑いを浮かべた。法子は去年、終電間際まで残業をした夜にホームから転落しかけた。その三日前にわたしが『疲れてるだろうから、眩暈とか立ち眩みに注意してよ』と言ったことを覚えていて、足がぐらりと傾く寸前によぎったらしい。
『由美の言葉を思い出してなかったら、そのまま落ちてたよ』
それ以来、法子は締めくくりにわたしの言葉を聞きたがるようになった。わたしは勿体つける振りをしてから、口角を上げて言った。
「大丈夫」
「え?」
「法子は大丈夫って意味」
「ほんとー?」
テンポの良いやり取りが一旦終わり、法子は笑い出した。わたしも笑いながら、続けた。
「いつもネガティブなことばかり言ってたら、ピリピリするじゃん」
それは、法子との付き合いを続ける中で、常に意識していることでもある。わたしが店を開くことを考えて、先輩からアドバイスをもらい、会社を辞め、ネギが突っ立った袋を持って法子の家まで走ったのは、全部同じ年のことだ。本当に目まぐるしくて忙しい年だったけど、わたしにはそれをやり切るだけの動機があった。前の年の暮れに叔母さんからの電話で、お父さんが病死したことを知らされたのが、ひとつ目。
もうひとつは、法子が『ネギの日』に語った、ここ最近でたったひとつだけあった『救い』。静かに崩壊する家庭の特等席に座り、とりあえず数珠だけ巻いて新聞から目を逸らすことなく体裁を死守していた男、法子パパ。そんな彼から唐突に、今までのことを謝るメールが来たらしい。
『なんか、簡単には信じられないんだけどね。向こうが会いたいんなら、別に会ってもいいかなとも思えてくる』
目の前の法子は、そのメールを見ていたときと同じで、まだ疑っているように首を傾げていたけど、ようやく納得したようにうなずいた。
「そっか、大丈夫か」
会計を済ませた法子の顔を見て、わたしは念押しをするように言った。
「今月は、自信をもっていいと思う。来月はネガティブなアドバイスにするから」
少し軽い足取りで帰っていく法子の後ろ姿を見ながら、思うことはある。最近、またミスが増えてよく怒られているらしい。だから、電話で話す回数は増えている。実際、おっちょこちょいなところはあるし、結局は上司との相性でしかない。それでも法子が大丈夫だと思うのは、別の理由があるから。
もう十年も前になるけど、ブランコに並んで座っていたとき。
『もう、顔も見たくないな』
お前は確か、こう言ったよね?
店を開くためのアドバイスを求める中で、先輩に言われたこと。
『お前、人を操るってか、教祖になりてえの?』
当たらずとも遠からず。でも、色んな人間の神様になりたいわけじゃない。法子にとっての神様になりたいだけだ。だってわたしは、法子のことなら何でもわかる。
例えば元々低血圧で、鎮静効果の強いハーブが簡単に眩暈を引き起こすことだって。
わたしのお母さんは、病室を綺麗に掃除してから亡くなった。お父さんはうわ言のように『これで極楽に行ける』と言いながら死んだらしい。迷信は今でも信じない。でも、どんな道を辿ったとしても、わたしが一番会いたい二人がそこに揃っているということだけは、確信している。だからこそ、信じたい。それが極楽でも天国でも。二度と帰って来る気が起きないぐらいに、いいところなんだって。