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人生×リキュール ヒーリング・チェリー・リキュール

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 当たり前よね。もう随分来ていないし。分厚いメニューを開く。カクテルの数がとても多い。オリジナルなのか、カクテルの下にはバーテンダーのものらしきコメントが書かれている。いちいち読んでいたら夜が明けてしまうだろう。パラパラと捲って、ファーストキスの文面で目が止まる。
『ファーストキスをされた日に、初めてご来店されたお客様のためにお作りしたのが思い出深いカクテルです』
 私は、年若いバーテンダーにそのカクテルを頼んだ。次いでに聞いてみる。
「あの、以前いらっしゃった初老のバーテンダーの方はもう?」
「ああ、あれは私の父です。肝臓をやってしまいましたが、今も時々店には立ちますよ」と、爽やかな笑顔を向けてくる。これは、私のようなオバさん連はくらっといってしまうだろうな。チエコとヨシエがいたら大騒ぎだ。
「お待たせしました。キッス・イン・ザ・ダークです」
 出された華奢なグラスには、アメリカンチェリー色の液体。一口飲む。キツい。そう、この味。あの時、いの一番に飲んだヨシエが思わず卒倒しそうになったアルコール度数の強さ。色々思い出す。
 結局ヨシエは、そのキスの相手と結ばれることはなかったんだけど。今もこうして、私とこのバーで彼女の思い出が息づいている。もう一口飲む。甘さとビターな香りが嫌いじゃない。飲んでいるうちに思いついた。
 そうだわ。今度、お義母さんも連れてこようかしら。
 あんな家の中だけじゃあ息が詰まっちゃうわ。気晴らしも必要よ。
 そもそも義母は酒が飲めるのだろうか。それすら知らない。戸籍上とは言え、残されたもの同士、二人きりの家族なのだ。
 そんなことを考えていたら、急に家にいる義母のことが心配になってきた。
 以前は社交的な性格だったが、相手の情報を思い出せなくなってしまったためか、めっきり人見知りになっている義母はヘルパーが嫌いだ。
『知らない人が来たの。怖かったわ。あの人、絶対泥棒よ』と私が帰るなり報告してくる。どうやらまだ私は安心できる相手だと認識してくれているらしい。これを飲んだら、大急ぎで帰らなくちゃ。
『そうそう』どこかからチエコの声が聞こえたような気がした。頭がふうんわりしている。アルコールが廻っているんだわ。
『お土産も忘れないようにね』ヨシエ。ごめんね。私、ほんとはチエコの最後に立ち会ったのが、辛くてしょうがなくて、だからあなたに会いに行けなかったの。やせ細っていくヨシエを見ていられなくて。どうにもしてやれない自分が情けなくて。一人で置いて行かれる恐怖を感じたくなくて。だから、避けていたの。ごめんね。
 ごめんねヨシエ。
「『大丈夫』ですよ」二人の声と被った低い声。
 チェイサーを差し出していたのは、いつかのバーテンダーだった。一気に老人になってはいたが、間違いない。彼は穏やかな眼差しで、ナプキンを差し出した。いつの間にか泣いていたらしい。年若いバーテンダーは消えて、グラスは空になっている。
「すみません。みっともないところをお見せしてしまって・・・あのお会計を」慌てて顔を拭いて鼻をかんだ。
 音楽が切り変わった。母親が赤子をあやすような優しいピアノの音。しっとりと芯の強い女性の声がなぞるメロディーには覚えがある。彼女がよく口ずさむ鼻歌。そう、思い出した。カーペンターズだ。三人でよく聞いたカーペンターズのレコード。まだ見ぬ未来の自分に思いを馳せていた女学生時代。そうよ。カーペンターズ。再び涙が頬を伝っていくのを乱暴に擦る。
「チェリー・リキュールがちょっと効き過ぎたみたいですね」バーテンダーがそう言ってトレーを持ってくる。
「チェリー?」
「このカクテルに使われているリキュールです」にっこりと微笑むバーテンダー。その笑みすらも懐かしい。
「サクランボのお酒だったのね。あ、じゃあ、これもそうなのかしら?」先程の老人からもらった瓶を見せる。
「ああ、そうですね。これはヒーリング社のチェリー・リキュールです。一番スタンダードなものですよ」バーテンダーはそう言って、酒棚から同じボトルを取り出してみせた。
 あの老人は、どうしてこれを? 人生に残る一本をとか言っていたけど・・・
「もしよければ、これ、もらっていただけませんか? もらったものなんですけど、家に持って帰ってもカクテルを作れないし、家ではお酒を飲めるような余裕もないので。新品みたいなので、お店で使っていただければ・・・」
「そうですか・・・では、こうしてはいかがでしょう? お客様の名前でリザーブしておくというのは?」
「リザーブ? 私の名前で?」
「ええ。お客様が来店されたら、このリザーブされているリキュールを使ってカクテルを作らせていただきます」
「あら、素敵。そうして頂けるのなら、ぜひお願いしたいわ」
 こんな青山のバーに自分の名前が書かれた酒瓶をリザーブしておけるなんて、なんだか通っぽいとはしゃぐ私に向かって、バーテンダーはかしこまりましたと恭しくお辞儀した。
「では、ここにお名前をお願いします」差し出されたプレートに、私は自分の名前の他にチエコとヨシエの名前を書き込んだ。それを受け取ったバーテンダーは目尻に優しげな皺を寄せていた。
「あの、今度、母を連れて来てもいいでしょうか? 母は認知症なので、もしかしたら大声を出したりして、ご迷惑をおかけするかもしれないんですけど」
「ぜひお連れ下さい。いつでもお待ちしております」
 お礼を言って店を出る。グレーの空には気の早い満月がかかっていた。
 「Close To You」を口ずさみながら今夜の夕飯は、義母の好物ホワイトシチューにしようかしらと考えて渋谷に向かう。
 お土産には、ふくさ餅を買って帰ろう。きっと喜んで食べてくれるだろう。




 ※ヒーリング・チェリー・リキュール
 世界的にも知名度が高く、バーの品揃えとしても外せないデンマーク産のチェリー・リキュール。1818年、ピーター・フレデリック・サム・ヒーリングによって、コペンハーゲンで創製される。ピーターは、以前働いていた雑貨店の夫人から家伝のチェリー・リキュールの作り方を教えてもらっており、それを作って販売したところたちまち人気に火がついた。原料となる自家農園産のチェリー(さくらんぼ)は、デンマークでは昔から栽培されてきた甘味が強く大粒の食用チェリー、グリオットと呼ばれる品種の系統。それを収穫後、一部は種を除いて発酵させてチェリーワインに、残りを種ごと粉砕後、中性スピリッツに浸けて蒸留。種ごと粉砕することにより、甘やかなビター・アーモンド香が添付される。アルコール度数十四%、ダーク・ガーネット色とも称賛される濃厚なこの酒は、チェリーならではの甘味に、ワインのような繊細で華やかな風味が特徴である。