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人生×リキュール ヒーリング・チェリー・リキュール

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 夜の帳が降り始めた青山通りを、三人並んで歩いていた。女学生だった頃から通っていた懐かしい骨董通り。ひっそりと灯るバーの立て看板。馴染みの店へはビルの地下二階にある。二人は相変わらずお喋りで、久しぶりに大笑いをした。そう。いつだって二人と一緒に大声で笑い飛ばしていれば、大抵の問題はどうだっていいと思えた。気に病むようなことじゃない。ちっぽけなことよ。そう、思えた。
「なににするー?」と、オバさん三人、メニューに顔を寄せ合ってきゃあきゃあ言いながら注文を決める。
 この店に怖々足を踏み入れた初日、なにを頼んでいいのかわからなかった私達に初老のバーテンダーは『今の気分をおっしゃっていただければ、そのイメージで作りますよ』と言ってくれたのだ。
 その日は、長年奥手だったヨシエのファーストキス記念日だったので、そんなようなことを話した。すると、バーテンダーは『キスをしたのはどんなシチュエーションでした?』と妙な質問をしてくる。浮かれているヨシエは物陰でぇと解説し出した。バーテンダーは真剣な顔で聞き終わると承知しましたと言って、カクテルを作ってくれた・・・アレ? なんて名前のカクテルだったかしら? チエコ達に訊ねようと思って二人を振り返ると、ついさっきまで隣に座っていたはずの二人が消えていた。初老のバーテンダーが静かに氷を削っている。
「あら、ねぇ二人はどこに行っちゃったのかしら?」私の問いにバーテンダーが笑顔を向ける。
「お客様は最初からお一人でしたよ」
 タンスが引っ掻き回される音で目が覚めた。枕元の時計を見るとまだ三時だ。義母がなにかを探しているらしい。上着を引っ掛けて義母の寝室に向かうと、寝小便でもしたのだろうか、滲みのついたシーツと布団の横に脱いだオムツが放り出されている。義母はというと、濡れたままのパジャマ姿で引き出しを開けたり閉めたりしていた。おかしいわおかしいわ、とブツブツ呟いている。
「お義母さん、どうしました?」
「ないのよ、ないの。どこにもないの」
「なにが、ないんですか?」
「なにがないも、ないものはないのよ」ダメだ。聞いても無駄だなと思い、とりあえずシーツを新しいものに換えて布団を押し入れから出した。濡れているものは、明日洗うつもりでお風呂場に運ぶ。タンスを探し尽くしたらしい義母は、今度は押し入れにかかろうとしている。さすがにそれは面倒なことになると思ったので、スッキリしましょうねーと言って、簡易便器に義母を座らせた。濡れているズボンを脱がせて、ウェットシーツで股を拭いている間も義母は珍しくおとなしい。自分の体は疎か下着すらも畳ませなかったかつての義母ならありえない姿だ。
 ふと顔を上げると、義母が置いて行かれた迷子のような顔をしている。
 日に日に、欠けていっているんだわ。あんなに気丈な人だったんだもの。平気でいられるわけがないわ。
 義母自身も不安で不安で仕方ないのだろう。だから、失くしてしまった何かを、一生懸命探すのね。それを見つけられないと、自分が消えてしまうような気がするから・・・
「お義母さん、なにか温かいものでも飲みましょうか」
 放心している義母を居間に誘う。あの悲しい夢のあとでは、自分も眠れそうにない。
 こたつをつけて義母を座らせて、台所で牛乳を温める。鼻歌を口ずさみながらハチミツを取り出そうとして、ふとチャイが飲みたくなった。義母にはホットミルクだけのほうがいいだろうか? 考えた末、シナモンがかかった熱々のチャイを二つ居間に運んだ。義母はよだれを垂らして眠っていた。毛布を持ってきて肩からかけると、一人チャイを啜る。
 今日はヘルパーを頼んである。あと、数時間後には玄関のチャイムを鳴らすだろう。
 そうしたら私は大きな花束を二つ買って、港区にある納骨堂にいる二人に会いに行く。帰りにあのバーに寄る時間があるかしら? そんなことを思い巡らしながら、徐々に薄くなっていく空の色を眺めていた。

 平日の午前中ということもあり、納骨堂には静謐な空気が漂っていた。
 私は、引き出された二人の戒名に手を合わす。チエコがここを希望したと息子さんに聞いたのもあり、ヨシエはお参りに来るたびに、あたしも絶対にここに入るわと息巻いていた。娘さんによってその願いが叶ったのだろう。羨ましいことだ。私はどうだろう。私が死ぬ時に遺言を実行してくれる家族なんて、いない。
 無縁仏になるのかしら。
 自分が死んだあとのことを考えるとぞっとした。
 そもそも義母はまだいるのだろうか。もし、生きているのなら誰が面倒をみるのか。老人施設に入れるとしてもタダじゃない。なにをするにしても、お金はかかる。妹夫婦と一緒に離島で穏やかに暮らしている年老いた母に迷惑はかけたくない。だから、可能なら私もパートに出たいのだけど。自分のお墓代くらいは自分でどうにかしたいし。パンフレットをもらって青山へと向かった。
 抜けるような青空が眩しい。日差しをたっぷり浴びながら歩いているだけで幸福な気持ちになってくる。鼻歌をうたう。そういえば、これはなんの曲だったかしら? 記憶を手繰るが引っ掛かってこない。いやあねぇ、これじゃあお義母さんを責められやしない。
 スパイラルビルに差し掛かった辺りで、車イスの老人とすれ違う。その拍子に、財布のような小振りな入れ物が足下に落下してきた。老人の持ち物らしいと咄嗟に判断した私は、拾い上げて踵を返したが、思いのほか車イスのスピードが早く、表参道の入り口でやっと捕まえることができた。
「拾ってくれた!拾ってくれたのか!」
 オーバーリアクションで話す老人を見つめながら、この人も認知症なのかしらと不思議な親しみが湧いた。
「嬉しい!嬉しいなー!ありがたい!ありがたいなー!そうだ、お礼!お礼をしなくちゃ!」道行く人全員が振り返るぐらいの大声で、老人はストレートな感情を表現し続ける。通行人にジロジロ見られて段々気恥ずかしくなってきた。
「お礼だなんて、そんな。いいんですいいんです。気にしないでください」それじゃと言って去ろうとする私の手を掴んだ老人は、車イスにかけた大きな袋を弄って、一本の黒い瓶を取り出した。
「ヒーリング・チェリー・リキュール!人生に寄り添う一本を!」
 そう言って瓶を押し付けたかと思うと、車イスはあっという間に走り去ってしまった。
 一体なんだったのぉー? 握らされたボトルをいくら眺めても答えは書かれていない。かといって、置いていくこともできないし。仕方ないわ、溜め息をついてバッグにしまった。
 まだ、あるのかしら?
 不安を裏切るように骨董通りに懐かしい灯りが見えた。心が躍る。まるで若返った気分だ。飴色のカウンターと、蝋燭の灯りのような暖かみのある照明。トランペットの切なく間延びした音楽が迎えてくれた。変わってないわ。けれど、バーテンダーは変わっていた。だいぶ若い男性だ。あぁこの人じゃあダメだなと、落胆したがせっかく来たのだからとカウンターに座る。