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人生×リキュール ガリアーノ

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 彼は、徐に妻の隣に寝っ転がった。見ると妻の両目が開いている。あらぬ方向を向く黒目に少しでも山茶花が映るように布団をずらす。喜ぶように彼女の手がゆっくりと上下する。握り易く工夫したタオルを握らせてやる。慣れない頃には、一喜一憂したこれらの体の反応は、彼女の意思とは関係ない、本能的な生体反応だった。彼女は、目の開閉もすれば、噛んだり咳こんだり、声も発する。顔の筋肉を動かしてしかめっ面になれば笑顔の表情を作ることだってあった。それも話の合いの手のようなタイミングで。その度に、じつは目が覚めているのではないのかと期待しては裏切られを繰り返し、それでも諦め切れない気持ちと向き合わされる。
「こうやって、君は生きているのになぁ」
 もうすぐ嫁が換えの尿パック、オムツを手に、朝ご飯だと呼びにくるだろう。そうしたら妻の朝の体操とストレッチをしなければ。
「私は今年も有馬を買いますよー君の大嫌いな競馬だよーさっさと起きて、怒ってくれなくちゃあ」
 ふと、座敷を照らす日の光が陰って、明度が下がる。妻の顔が青ざめたように見えた。
「早く起きてくれなくちゃあ、ぼくが困りますよーなんせぼくは君なしだとパンツ一つ探せないんだ」
 彼は、血色のいい妻の頬にそっと手をあてる。温かい。妻の瞳に彼は映っていなかった。けれど、確かに生きているのを確認できた彼は、ゆっくりと目を閉じる。サイドモニターから発せられる命の音が一定の間隔で確実に時を刻んでいく。
『なぁ、母さん、起きると思うか?』
 数日前に、偶然、息子夫婦の会話を立ち聞きしてしまった。バツが悪くなって立ち去ろうとした瞬間に、震える声で息子が口にした言葉に動けなくなったのだ。それは、この家の誰もが疑問に思っていても誰一人口に出すのを恐れていた言葉だった。それを言ってしまったら、この出口の見えない現状維持の理由が根本から崩れてしまう。
 医師は、奇跡的に意識が戻るとしたら、長くて一年以内でしょうと断言した。ただ、それはあくまでも若い患者の例であって、妻は歳も歳なので症例が皆無のため希望は無いに等しいとも。それでもいいと彼は言い張った。現に妻は自発呼吸をして生きているのだ。眠っているだけの状態の者をなぜ殺す必要があるのだ。妻は必ず帰ってくる。彼は信じて疑わなかった。そう。最初の一年までは。
 一年を過ぎたあたりから、不安が彼の胸に巣食い始めた。
 もしかしたら、このまま目を覚まさずに黙って逝ってしまうのではないか。
 疑問を養分に育った不安は絶望という名に変わり頻繁に彼を翻弄する。何度も悪夢にうなされて夜中に目が覚めるようになった。彼はその度に、足音を忍ばせて妻の様子を見に行く。そして、サイドモニターの波形を見て落ち着きを取り戻す。そんな彼を見兼ねた嫁が、妻と一緒の部屋に寝起きをしたらどうかと提案してきた。確かにそれなら、いつでも隣に妻がいる。ということで、二人はこの家で一番広い座敷に寝所を移したのだ。
 すると、それまで苛まされてきた絶望がひゅっと成りを潜めた。不安になった時には、妻に触れることで気持ちを落ち着かせる。自分と妻に大丈夫だ大丈夫だと言い聞かせながら。
 彼が目を開けると、座敷は再び光で溢れていた。風が強いのか山茶花の花びらが踊っている。
 床暖房が完備された我が家は真冬でも冷えとは無縁だ。息子夫婦と同居するにあたり、思い切ってリフォームしてよかった。新し物好きの彼の趣味で、床暖房のみならずソーラーパネルにオール電化といった最先端技術を惜しみなく投入している。特に床暖房は、凍えるような早朝に素足で歩き回るたび、座敷に直接胡座をかいて座り雪化粧の庭を眺めたりするたびに、しみじみと有難さを実感する。可愛い孫に風邪をひかせることもない自慢の住まい。以前の小さな町工場だった頃には想像できないほどの贅沢な住まいだ。
 工場の二階が住居だったあの頃。再び日が陰り、視界を沈ませた。
 真っ先に、若い妻とまだ小学生だった息子が浮かんだ。親から受け注いだ工場。医療用機器、主にアナログ脳波計測機を製造する小さな町工場だ。特殊な機器なだけに業績は横這いで、取り立てて良くもならないが悪くもならない。不景気の煽りを受けて、知り合いの工場が一つまた一つと倒産して消えていくのを横目にどこか他人事な自分がいたのは否めない。
 けれど、一般消費者相手の製品じゃないからという思い込みが仇となる。医療業界にも不景気の波は容赦なく襲いかかってきた。従来の紙で記録をしていたアナログ計測器よりデジタルで記録が可能な外国製のデジタル計測器に乗り換えていく医療機関が続出。従業員の数は減っていき、関係ないと思っていた倒産の危機が間近に迫りつつあった。にも関わらず、彼は連日競馬場に通い詰めていた。滞っている借金返済のために元手を増やすという言い訳をしながら、その実、九割型は現実逃避であったのだ。借金取りに怯えながら何とか生計を立てていた家族に愛想をつかされても文句は言えない典型的なダメ親父だった。
 そんなある日。
 出かけに珍しく妻が見送ってくれた。
「今日も金策なんでしょう? いつもありがとう。気をつけてね」
 優しげな笑みを浮かべて、内職で荒れた手を振る妻。まさか競馬場に行くとは言えず、俯いて家を後にした。自分が競馬場に通っていることを、妻は知っているはずだ。不甲斐ない夫に対して、恨み言の一つでも言ってもいいものを。妻の我慢強さが情けない我が身にこたえた。
 彼は大きな溜め息を何度もつきながら、それでも競馬場へと向かう。馬券を買って場所を確保すると、周囲に視線を泳がせた。どうしたって裕福には見えない恰好をした人々でごった返した競馬場。それぞれの手に握りしめるのは夢なんて甘っちょろいものではない。希望どころか人生そのものを握りしめているようだ。
 妻や息子が怒るのも無理はない。こんなところで賭け事をしている場合ではないことは重々承知している。では、ぼくはなんのためにここに通い詰めているのだろう・・・?
 時代の波に乗ったもん勝ち。そんなことはわかっている。わかっていて尚、では国産のデジタル計測器をと大手のメーカーと競い合う気になれないのはどうしてだろう。わかっている。自分は頭が堅い。職人気質の親父ゆずりのアナログ人間なのだ。だから、この状況。家族に苦労をかけているのがわかっているのに、打開策を出せないでいる。だが、きっと自分のように頑固者はたくさんいるだろう。それこそ、年配の医者なんかお手本になるくらい昔気質のアナログ人間が多いはずだ。少なくとも、今まで自分が関わってきた医療関係者の約半数がその類いだった。長年の経験と勘がものをいう診察。ミミズがのたくったような手書きのカルテ。棚に詰まった個人情報。医療業界のデジタル化がいくら進んでいようとも、そうそう簡単に今までのやり方を変えられない。そんな病院が大小問わず無数にあるはずなんだ。そこまで考えたところで、ふと思いついた。そうか。それならば、