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人生×リキュール ガリアーノ

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年末が押し迫る日曜の早朝だ。
 彼は素足にサンダル履きで、いそいそと近所のコンビニまで競馬新聞を買いに行く。
 息子とその嫁にいくら窘められようとも、これだけは辞められない。辞められるわけがないし辞める気もない。彼の唯一の趣味。年末恒例のお楽しみ、有馬記念だ。二藍と鳥の子色を一滴ずつ垂らしたグラデーション。それを透明度の高いガラスに閉じ込めたような空の下、吐く息すらも白く凍り付きそうだ。競馬新聞が気になる彼は、そんな寒さなどに構っていられない。齢八十。社長業を退きはしても、まだまだ若いもんには負けない。自然と足取りが軽くなる。
 競馬新聞を入手して意気揚揚と帰宅すると息子と玄関で鉢合わせた。
「どこ行ってたんだよ親父」息子と愛犬に同時に見咎められた彼は、うっと息を飲む。有馬記念で頭がいっぱいだった彼はあまりに浮かれて、すっかり愛犬の散歩を忘れていたのだ。息子の視線が彼の手元に注がれる。
「また、競馬かよ」嫌悪する歪みを顔に浮かべる。
「年末くらい、いいじゃないか。年寄りの娯楽だ。多めに見ろ」
「いいわけないだろう。それが原因で一家離散の目に合ったんだ。忘れたのか?」息子の視線が上がってくる。
「母さんだけじゃなく俺にまでかけた苦労を思い出せるマトモな頭がまだあるなら、そんなくだらないギャンブルからはとっくに足を洗っているはずだろ」
「ふむ。確かに一理あるな。だが息子よ。おまえの言うくだらないギャンブルに手を出したからこそ破産して今の会社を起業できたとも考えられる。つまり、競馬がなければ今の俺たちの生活はないということになるな。皮肉なものだな」憮然と言い返してくる彼に、息子の口調が強まっていく。
「それは結果論だろ!競馬を続ける理由とは関係ないじゃないか!俺は、良心が咎めないのかって聞いてんだ!」
「良心とは、これまた大義な言葉を持ち出したもんだな。いやはや。たかだかギャンブルごとき大した騒ぎだな」のらりくらり躱そうとする父親を、今日という今日は逃がさない構えらしい息子は追及を緩めない。
「なにが、たかだかだ? ギャンブルごとき、だと? ふざけるなよ親父!俺たちがギャンブルアレルギーだと知ってて、わざとそんなことをしてるのだとしたら縁を切る日も近いな!」息子に同調した犬も吠え出す始末。ちょっとした騒音騒動だ。いったいなにごとですか? と、騒ぎを聞きつけた息子の嫁がパタパタ現れた。
「こんな時間から、二人揃ってなにしてるんですか? 喧嘩している暇があるなら手伝ってください。年末は忙しいんですから」犬を黙らしながら男二人をやんわり窘める息子の嫁は、所謂できた嫁だった。息子は、そんな嫁の手から犬を引き剥がすと散歩に行こうと背を向けた。
「親父、会社の金はびた一文たりとも賭けさせないからな」捨て台詞を吐いて、足早に遠ざかる。
 やれやれと僅かな髪が残る頭を撫でた彼は溜め息をついた。会社の金だと? バカなことをいうものだ。心配そうに見守る嫁を先に立たせて家に入った。キッチンに入っていく嫁を横目に、ペタペタと廊下を歩いて奥に位置する座敷に向かう。その間、待ち切れない彼は歩きながら新聞を広げ始めた。息子になんと言われようと、有馬記念だけは見逃せない。馬の名前を吟味しようとしたところで座敷の襖に行き当たる。襖を開けると、朝日が満ち溢れた十畳の座敷が広がった。南東の縁側に囲まれた二面採光。この家で一番明るい部屋だ。その部屋の真ん中に敷かれた厚みのある羽根布団。そこに横たわっている老年の女性。彼の妻だった。
 一昨年の夏。家族旅行で行った海で、少し目を離した隙に流された小学生の孫を助けようとして飛び込んだカナヅチの妻。
 なんとか孫を捕まえて持ってきた浮き輪にしがみつかせると、力尽きて沈んでしまった。すぐに助け出されたが、意識不明の重体だった。
 搬送先の病院で大脳損傷だと判定されて以来、植物状態にある。
 治療を初めて三ヶ月、半年が過ぎたが、妻の意識が回復しそうな兆しは見られず、高齢であるということも踏まえ、このままの状態を維持するかどうか否かの二択を迫られた。自発呼吸をし、排尿排便、消化吸収まで問題なく機能し続けている妻。半開きになってしまう彼女の瞼を優しく閉じた彼は迷うことなく延命を選択。それも自宅での延命措置を希望したのだ。
 彼の決断に、息子夫婦は異論を唱えることもなく同居を提案してきた。なんせ家事の類いは全て妻任せだった彼。慣れない一人暮らしに加え初めての介護となれば、しっちゃかめっちゃか大騒ぎになるのは誰の目にも明らかだった。そんな周囲の危惧とは裏腹に、妻が目覚めた暁には家族の顔が揃っていたほうがいいだろうからなと彼は神妙に頷くと、息子達の提案を受け入れたのだ。
 妻は依然として深い眠りの底にいて、浮上してくる気配はない。二度目になる年越し。
「いったいいつになったら起きてくれるんですかねぇー」
 妻の枕元にあぐらをかいた彼は、脇の畳の上に新聞を大きく広げる。妻の側に置いてある老眼鏡を引き寄せてかけると、息子が嫌悪するように妻も嫌いな競馬新聞をわざと枕元で読み耽リ始めた。
 ベッドサイドモニターには彼女が生きている証でもある心拍数を表す三種類の波形が流れている。波というよりは大小の山の連なりに似ているなと思う。妻とよく登った槍ヶ岳や南アルプス。遠くから眺める山脈の形を追っているようだ。それも同じ山ばかりを繰り返して。その繰り返しが重要で、変わらないことが肝心。同じ山をぐるぐるぐるぐる。そうやって現状を維持していく。そうやって妻が今日もここにある。彼は新聞を睨む。
「それにしても、わからない名前が増えたな。それに品のない名前もだ。つけられた馬が可哀想じゃないか。もっと縁を担ぐような名前にしてやったら、ちったぁ気合いも入るんじゃないかね」
 ぶつぶつと独りごちながら、赤ペンを引き寄せると、これはと思う馬の名前に丸をつけていく。
 有馬記念は今年で二回目だ。妻がこうなってから始めた。だから余計に息子は目くじらを立てる。親父はなにを考えているんだ。不謹慎だと怒鳴る。まぁそんなことは百も承知だ。
 競馬に充てる出資金は、時々参加する日払いの草刈りバイトでもらう給金を貯めたもの。無論、息子夫婦は知らない事実だ。知らせる気もないがな。
 新聞との睨めっこに疲れた彼は目を瞬かせながら庭を眺める。
 緑が失せ、すっかり殺風景になった庭に山茶花だけが鮮やかだ。冬の庭を寂しく思った妻が植えたものだった。
『明るい色がいいわ。濃いピンクなんてどうかしら?』
 控え目な色合いばかりを身につけていた妻が、派手な色を好むようになったのはいつからだろう。
 歳をとるにつれ白髪が増えていくように、自分の体の色素が抜けて白っぽくなっていくみたいだと言っていた妻。だから、鮮やかな色を纏って元気を取り戻すのだと混じりけのない原色に惹かれていた。老いとは、漂白されてシワシワのミイラのようになることなのかしらと散々恐怖していた妻は、今、その時を止めている。
「今年も山茶花が見頃になりましたよー君好みの派手な色が咲いてますよー」