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人生×リキュール カンパリ

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 彼は一口含んで、うがい薬と言われる所以を理解する。カンパリは正直、初心者の舌にとって美味とは言い難い味だった。苦味が先に立ってくる。だが、すぐに夏の午後に吹く一陣の涼風のような清爽さがシュワっと広がるのだ。邪魔な甘味が少ないので、料理との愛称もいい。なので、気付けばグラスは空になっている。気怠いアコーディオンの音と相俟って訪れたことはないが、イタリアを感じたような気になる。
「羊羹はいくつ買う予定なんですか?」頃合いを見て彼女に訊ねた。
「羊羹って、なんのことかしら?」
 覚えがないけどと小首を傾げる彼女を見ながら、彼は心でガッツポーズをする。記憶の切り替えに成功したのだ。これで悪徳宗教と高級羊羹の問題は退けられた。あとは、どうやって連れ帰るかだ。
 警戒心が強い彼女のこと。タクシーに無理矢理乗せて連れていこうとすれば大騒ぎになってしまうだろう。なにかいい手がないものだろうか。酔いが手伝って伴侶との会話も饒舌になっている赤ら顔の彼女の様子を伺いながら彼は知恵を絞った。せっかくの料理を心置きなく味わう余裕すらない。
「これから、どちらまで行かれる予定ですか?」
「どちらもなにも。世田谷の自宅に帰るんですの。主人がもうすぐ帰宅できると思うので、片付けないといけないんです」
 彼女が言う自宅が、彼女が最後に住んでいた家だとするなら、もうとっくに取り壊されている。現在は高層マンションが建っているはずで、彼女が帰る場所は残されていない。困ったなぁと彼は頭を掻く。
「世田谷ならぼくの行き先と同じですね。どちらの駅ですか?」
「駅名は・・・ええっと。ちょっと待ってちょうだい。今思い出すわ。ねぇあなた。最寄りの駅名なんだったかしら。あら、あなたも覚えてないの? もう。夫婦二人してダメねぇ」
「もしかして、府中ではないですか?」府中は彼女が入所している特養がある駅だ。
「府中? そんな駅名だったかしら? ねぇあなた。府中だったかしら?」首を傾げて思い出そうとする彼女。
 頼む。そういうことにしてくれ。なんせ今日は連休初日なんだと心で祈りながら、彼はカンパリ・ソーダを飲み、カルパッチョを口に運ぶ。炭酸で誤摩化されているとはいってもアルコール分は健在だ。
 微酔い気分の頭で、たまには妻と休みを合わせてのんびりイタリア旅行でも洒落込みたいものだなと考え始めた。
 看護師の彼の妻は、彼以上に多忙だった。
 お互いの当直が被ればいいが、ほぼすれ違いの生活に等しい。それでもやっていけてるのは、お互いに心身共にクタクタになるまで全集中しないといけない種類の仕事内容だからだろう。どちらも、人や社会に貢献している誇れる職種だ。・・・けれど。
 当直空けでフラフラの妻が、食べようとしてレンジで温めている間に寝落ちしてしまった冷凍食品を、同じく当直空けの彼が発見して再温めを待っている時などによく思う。
 けれど、これでいいのだろうか?
 妻はもうすぐ三十後半。いい加減に子どもだって欲しい。
 おれはいいが、妻はいつまでこの生活を続けられると思っているのだろう? 話し合おうにもお互いのタイミングが合わなければ何ヶ月も、下手したら半年以上先伸ばしになってしまう。
 目の前のやらなければいけない事だけに集中してしまうと、数歩先すら見えなくなってしまう。
 いいのか? このままで。
 いつのまにか思いに耽ってしまった彼を、老婆がじっと見つめている。その白みがかったガラス玉のように澄んだ瞳は、彼を畏縮させるには充分だった。酸いも甘いも知り尽くした人生を悟った者の眼差しだ。
 彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「私、府中には行きたくないわ。思い出したの。私たちは空港に行かなければいけないってことを」
「空港に行って、どうするんですか?」
「旅に出るのよ。決まっているじゃない。それ以外で空港に行く用事なんてないでしょ?」おかしなことを聞いてくる人もいたもんだと困ったような皺を寄せて苦笑いする彼女。
 どこまでがマトモでどこからが空言なのか。
「だから、親切なあなたともここでお別れね」きっぱりそう言うと、彼女はカンパリを一気に飲み干した。
「いえ、せっかくの縁ですから。よければ空港まで送りますよ。送らせてください!」思わぬ成り行きに、このままでは大変な事態に発展しそうな危機を感じた彼は慌てて懇願するように取りつく。
「まぁなんて親切な方でしょう。こんな老夫婦の身を案じて、お付き合いくださるなんて。ねぇあなた。若者の鏡ね。でも、私達は二人だけで大丈夫よ。主人は歳は取りましたけど、こう見えて若い頃は正義漢で通していたのよ。一度なんて我が家に入った泥棒をこてんぱんにしてやりましたよ。傑作だったわ」
 彼には見えない伴侶を振り返ってうふふふと可愛らしく笑う老婆。取りつくしまもない。
 困ったな。そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、ほろ酔いの老婆はすっと立ち上がると「ご親切にどうも。ご馳走様でした。さようなら」と笑ってスーツケースを転がして出て行ってしまった。
 慌てて会計を済ました彼が外に飛び出した時既に遅し。膝を庇って歩く彼女の姿は、新宿の喧騒に溶け込んでしまっていた。
 とりあえず空港に向かうかと思い立ったが、彼女の言う空港が羽田なのか成田なのかすら聞いていないことに気付いた。
 施設に電話してみると、案の定大騒ぎになっている。
 彼女から息子を始めとした親族宛てに遺書のような手紙が届いたらしく、受話器越しでも電話が鳴り響いている音が聞こえた。苛立つ上司を相手に、ついさっきまで彼女と一緒だったと言えるタイミングを逃してしまった彼は静かに通話終了ボタンを押す。
 彼女はほんとうに伴侶と旅立つ準備をしていたのだ。
 それがわかってしまった今では、彼女の行動の全てが演技だったのではないかという気すらしてくる。
 家族は警察に捜索届けを出すだろう。警察は空港まで行くだろうか? 教えてやるべきだろうか逡巡していると息を切らした友人に肩を叩かれた。店に置き忘れていたカンパリのボトルを届けにきたのだ。礼を言って受け取ったボトルにはまだ半分以上カンパリが残っている。
 忘れ物を届けるという捜索の大義名分になるかもしれないかと赤い液体を太陽に翳すと、彼女の笑顔が見えた気がした。「おやめなさいな。親切な方」そんなことをやんわりと諭しそうな笑顔だ。
「やあれやれ・・・」
 おれは知らんぞーと溜め息をつきながら、瓶を降ろして濃度が増してきた青空を仰いだ。
 彼女と乾杯したカンパリの爽やかな苦味が口中に広がり、次いで妻の顔が浮かぶ。
 自分たちも彼女たち夫婦のように、穏やかに歳を重ねていくことができるだろうか?
 次に妻と休みがあった時には、これからのことを話し合おうと決意した。
 彼女の置き土産のカンパリ・ソーダを飲みながら。

「そういえばあなた、思い出してくれた? あの時に、あなたがおっしゃってたこと」
 麗らかな日差しが降り注ぐ車内に乗客はまだらだ。スーツケースに両手を乗せた彼女は、少しウトウトしながら終着駅を目指す。
「あの時よ、ほら。イタリアに旅行に行った時にカンパリで乾杯したじゃない? 私、一時だって忘れたことはないわ。あなたとの大切な記憶ですもの」