人生×リキュール カンパリ
老婆は水に浮かぶ枯葉のようにあっちへこっちへと人に流されてガクガクとふらついている。確か膝を痛めていたはずだ。見兼ねた彼は彼女の手を引く。
彼女は一瞬怯えた顔をしたが、大人しく彼についてきた。
「あなた、女性のサポートがお上手なのね」新宿駅の人ごみから解放され、彼女の手を離した時だった。
「うちの主人も上手なの。ねぇ。そうよね、あなた。若い頃はそりゃあプレイボーイだったのよね?」
うふふふと少女のように笑う彼女。
まるで、彼女の伴侶がこの場にいるかのような話しぶりだが、彼女の夫は、脳梗塞で入院してから、半身不随になり長年寝たきり状態だったと聞いている。
確か彼女が施設に入所する三年前に癌を併発して他界しているはずである。
彼女は病院に通い詰めていたらしい。
亭主がなくなってしばらくは自宅で一人暮らしをしていたが、奇行や夜中の徘徊などを目撃した近隣住民が息子に知らせたことで一人では置けないと判断され、今の施設に連行された。
入所者の誰も信用出来ず、打ち解けようとしない彼女は、常に独り言を呟いている。不安だったのだろう。
にこりともしない意固地な態度もあって、職員の間では独り言ババアなどと侮蔑的なあだ名がついてしまった。だが、こうして他人として接している限り、ただの上品な老婦人だ。
「さっきもね、そのことを話していたのよ。ね、あなた。今度、家族で旅行に行こうって。うちの息子と孫達も誘ってね。楽しみよねって」嬉しそうな彼女に、そうなんですねーと温和な答えを返しながら、当直勤務初日から電話をかけてきた彼女の息子の怒鳴り声が苦々しく蘇ってきた。彼が当直入りして引き継ぎを受けていた時。何度も何度もしつこく鳴り響く電話の呼び出し音を聞いた時点で危険を察知できればよかったのだ。受話器を耳に当てる前に罵声が飛び出してきたので、彼は思わず受話器を落としてしまった。そのことでますます相手方の怒りがスパーク。その後はひたすら謝り倒し、結局なんの理由だったのかは最後までわからず終いだった。電話を切った彼に、古株の職員が遅まきながら忠告してきた。彼女の親族、特に息子は厄介だから気をつけて。母親からの通報や些細なことですぐに訴えると騒ぎ出すからと。遅ぇよ、と内心で毒突きながら、みたいっすねーと返した。
とにもかくにも、徘徊、というより出奔している老婆をこのまま見過ごして、幸福の会とやらに行かせるわけにはいかないし、有り金はたいて高級羊羹を買わせるわけにもいかない。なんとか上手く誘導して、施設に連れて帰らなければ捜索願が出されることは必須だし、また息子の怒声を聞かなければいけないのだ。
「あの、腹減りませんか? もう昼ですし。とらやはここから数分のところにありますし。おれ奢りますんで、よかったら昼飯、一緒しませんか?」老婆が答えるより先に彼女の腹がなった。
「決まりですね」
彼の案内で、二人は歌舞伎町のイタリアンレストランに落ち着いた。陽気なアコーディオンがかかる店内をハイカラな店ねぇと物珍しげに見回している老婆にメニューを渡しながら、友人が働いているんですよと彼が説明する。
「私、小さい文字が見えないのよ。だから、あなたにお任せするわ」
彼女がメニューを返してよこしたので、彼は適当に注文する。飲み物はなににするかと聞くと、彼女はスーツケースを開けてガーネット色に輝く瓶を取り出した。
「カンパリって言うのよ。これを、ソーダで割っていただくことはできるかしら?」瓶を持ち上げて莞爾する彼女。
「相談してみますよ。それにしても上等なものをお持ちで」
小柄な彼女に不似合いなボトル。恐らく洋酒だろうが、彼女の施設での持ち物として見たことはなかった。
「駅に向かう途中でね、車イスに乗った方が側溝に嵌って往生していたものだから」
「その方を助けたお礼というわけですか」
「却って気を使わせてしまったから申し訳なくてお断りしたんだけど、人生の一本だからって。ねぇあなた、そうよね? 意味がよくわからなかったけれど、差し出されたのがカンパリだったから思わず頂いちゃったわ」
友人に相談すると、セルフで良ければと快承してくれたので、運ばれきたグラスに彼女から受け取ったカンパリを適当に注ぎ、別注したソーダで満たした。窓から差込む正午の日差しが、赤い気泡が踊るグラスを宝石のように彩っている。キレイな酒だなと思った。彼女も、その様子をうっとりと眺めている。そうこうしているうちに、ピザやカルパッチョを始め注文した品々がテーブルに並べられると、彼女はご馳走ねとはしゃぐ。
「あなたの大好物のアンチョビのピザがあるわ。よく二人で食べに行ったわねぇ。懐かしいわ」そう言いながら、ガーネット色をしたカンパリのソーダ割りを傾ける。いい飲みっぷりだ。
「カンパリ、お好きなんですね」
「ええ。主人とイタリアに旅行した時に、初めて飲んだの。主人と二人で太陽に向かって乾杯して。ね、あなた、そうよね? カンパリ・ソーダの透き通った真っ赤な色と、うがい薬なんて揶揄されている爽やかな苦味が、イタリアの空にも太陽にも国柄にもすごくよく合っていて、それ以来ずっと大好きなお酒の一つよ。これを飲めば、いつでもあの時のイタリアに戻ることができるもの」うふふふと幸せそうに笑う彼女。
この人はこんなに笑う人だったのか。
不機嫌そうにしている顔しか見たことがない彼は驚くと同時に彼女の心情を斟酌しようとする。
不安感から頑に他人を拒み続け、空想の夫だけを話し相手に日々を過ごす。
亭主がなくなって、独りぼっちになって、さぞかし寂しかったんだろう。
「おれも、カンパリ・ソーダ飲んでみようかな」
「そうしなさいな。イタリアを感じられること請け合いよ。ね、あなた。そういえば、ローマに着いた時に、あなたカメラを失くしちゃったのよね。覚えてる? あの時は大変だったわね。なんせ旅行のために奮発した高級カメラだったでしょう。結局、移動で使ったバスで見つかったから良かったけど。あの時のあなたの取り乱しようと言ったらもう。今思い出しても吹き出しちゃうわ。うふふふふ」そんな嬉しそうな彼女を見守りながら、運ばれてきたグラスにカンパリ・ソーダを作る。
彼女の目には、夫はいつでもすぐ隣にいるのだ。
生前、口がきけなくなってしまった最愛の夫に、色々と話しかけていたのだろう姿が容易に想像できる。
返事がなくても話しかけることを辞めようとはしなかったのではないだろうか。
話かけることを辞めてしまったら、夫が遠くに去っていってしまいそうな恐怖が、もしかしたらあったのかもしれない。彼女の空想の夫との対話は、その延長なのだろう。
話しかけるのを辞めてしまったら、夫がほんとうに遠くに行ってしまうかもしれないから・・・
二人はカンパリ・ソーダで乾杯した。
作品名:人生×リキュール カンパリ 作家名:ぬゑ