空墓所から
55.正狂の狭間で
突然、オフィスでO係長がおかしくなった、そのような報告が会社からありました。まあ、実際にその様子は僕も見ていたのですが。
午後の2時。昼食による眠気がじわりじわりと押し寄せてくる中、それでも頑張って働かなければならない時間。午後の明るくて気持ち良い日差しが窓から降り注いでいるのに、定時まではあと数時間。しかも、その定時がやってくる頃には、気持ちの良い日差しはすっかり西に傾いている、そんなジレンマしかない時間、午後の2時。
誰もが水面に顔を沈めて我慢をしている状況。そこに限界が来て顔を上げてしまったのがO係長だったのです。
最初は、誰もその異変に気付くことはありませんでした。O係長は印刷した書類を複合機から取り出し、自席で誤脱字などの確認作業をしていました。そこで突然、今まで見ていた書類をビリビリと破り始めたのです。
この行為、よくよく考えると違和があるのですが、このときは取り立てて誰も注目しませんでした。通常、失敗した書類を処分する場合はシュレッダーを用いるか、特に重要なものでなければ経費節約のために裏面を利用します。そう考えると、自ら書類を破りだすというのはちょっとおかしいのです。
でも、会社員だって人間です。作成した書類の出来があまりにもひどかったり、同じようなミスを繰り返したりすれば、どうしても感情的になってしまいます。そんなとき、思わず自分の手で書類を力いっぱい破ってしまう、そんなこともあるのではないでしょうか。彼の異変に気付いていなかった同僚たちは、恐らくそのように考えていたのでしょう。
その後、O係長は破れた紙片が散らばるデスクを気にもせず、マウスをカチャカチャとしきりにクリックしていました。O係長の席は窓際を背にしているため、この作業には誰も気づいていませんでしたが、彼はこのとき通販サイトにアクセスし、何やら私物を購入していたようです。この情報は後に社内システム部から報告があったと聞いています。
オフィス内の人々が彼の異変にはまだ気がついていなかったのは前述のとおりですが、次の行動でようやく何人かが、「おや?」と思い始めたのです。
彼はいきなり、デスクの上に置かれていた付せん紙を手に取って立ち上がり、オフィスのいろいろなものに「これは重要!」と言いながら付せんを1枚ずつ貼り付け始めました。電話機、ホワイトボード、キャビネット、金庫、傘立て、ゴミ箱、経理のIさん……。
ここに来て初めて、周囲の人々もおかしいぞと思い始めました。でも、怖くて誰も止められなかったようです。もしかしたら、まだぎりぎりエキセントリックな社員ならやるかもしれない、そんな思いがあったのかもしれません(O係長は別にそんな人ではありませんでしたが)。でも、その次の行動がついに彼の精神に異常をきたしていることを決定づけたのです。
O係長はまたも複合機のところにやって来て「これも重要!」と言いながら付せんを貼ると、今までよりもひときわ大きな声で「そうだ、これが最も重要だ!」と叫び、自分の頭部に付せん紙を貼り付けました。そして、「これはコピーを取っとかなきゃ」と言ってふたの開いた複合機に自分の頭を押し付け、連続でコピーを取り始めたのです。
これは完全におかしい、オフィス内がそういう空気に染まり、ドン引きしている女性社員も出始めます。同僚たちが駆け寄り、彼に止めるよう促したり、説得を試みたりを始めます。そんな中、僕は思わず大笑いでパチパチと手をたたいて喝采してしまいました。どうしてもそうせざるを得なかったのです。
そうこうしているうちにサイレンの音が聞こえました。誰かが救急車を呼んだのでしょう。やって来た救急隊員が自分の頭部をコピーしている男に何やら話しかけます。O係長は隊員の顔を見て一度だけ頭を下げると、聞き分けよく自分から救急車に乗り込むために歩いてオフィスを去っていったのです。
その後、会社から冒頭の発表があり、O係長は自己都合で退職ということになりました。O係長は以前から激務が続き残業なども多かったため、会社としても解雇処分で放り出すのは後ろめたかったらしく、退職金に色をつけるのでどうにかことを収めてくれるようO係長の奥方と話をしたといううわさを聞いています。
ちなみに、僕もこの件で戒告処分を受けました。O係長の奇行を見て笑って手をたたいていた、けしからんというのがその理由です。
でも、なぜ笑ってはいけなかったんでしょうか。
僕は彼の行動が面白いから笑ったのではありません。彼の心情がよくわかるから笑ったんです。気が狂いそうな拘束時間。暮らすのがやっとの薄給。ギスギスと音を立ててぶっ壊れてしまいそうなひずんだ人間関係。
おかしくならないほうがおかしい、そう思うんです。
そんな中、O係長は自分の頭に「最も重要だ!」といって付せんを張りました。そして「コピーを取っとかなきゃ」とも言いました。そのとおりだと思うんです。会社のどんなものよりも自分の頭がいちばん大切なんです。可能ならコピーやバックアップを取っておきたいぐらい大切なものなんです。
もうこれほど同意できることはありません。おかしくなりそうな環境で壊れてしまい、それでも大切なものをちゃんと理解して、それを残そうと試みる。まったくもって人として正しいと思うのです。僕はそれを目の当たりにして、O係長に思わず笑顔で喝采を送ったのです。
だから、O係長がおかしくなったという発表を、僕は間違いだと思っています。
それどころか、彼はあのときオフィス内で最も理性的だったと信じています。彼は最初の書類を破ったときから真顔でしたし、ネットで買い物をしている時も、付せんを貼り付けているときも、コピーを取っている時も、隊員の後についていくときですら、あの狂人に特有の張り付いたような笑顔を一度たりとも見せなかったのですから。
まあ、こんなことを説明しても、ここのオフィスの狂人たちには理解できっこないでしょう。同僚がおかしくなって辞めたんだ、と酒の席で面白おかしくさかなにするようなやつらでしょうから。
というわけで、戒告の文書を先ほど頂戴いたしました。何やら御託が書かれておりますが、もとよりこちらは自分が悪いとは露ほども思っておりません。
僕はあのときのO係長のごとく、戒告書を両の手でビリビリと破いてばらまきます。そして、ひらひらと紙片が舞い散る中、O係長の幻影を見てぎょっとしている同僚たちを、冷めた目で眺めたのでした。