空墓所から
44.悪臭
西本の家を訪れることにした。
西本は大学時代は快活で女性からの人気はあったものの、それほど浮いたうわさもなく、そつのない感じで大学生活を楽しんでいた男だった。しかし、大学を出て企業に就職し、働き始めてから数年もたたぬうちにいきなり会社に辞表をたたきつけ、結婚を前提に交際していた彼女とも別れてしまった。そして、何を始めたかと思えば、家でひとりディスプレイに向かい続けて昼夜を問わずごそごそやっているという、よく言えば隠者のような、悪く言えば引きこもりそのものといったような生活を送るようになってしまっていた。
彼と同じ大学を卒業後、しがない清掃業者に就職した私は、忙しい合間を縫いながらも彼と連絡を取り続けていた。彼はどちらかといえば陽キャだったのに対し、私は大学時も就職してからもウジウジと日陰にいるようないわゆる陰キャ側。そんな私たちだったがなぜか話してみるとひどく馬が合い、その縁が途切れず、たまにスマホにメッセージを送る程度の付き合いを続けていたのだった。
西本のご両親は、彼が会社を辞めた頃に相次いで亡くなったと聞いている。そのおかげでそこそこの額の遺産を相続し、悠々自適に今の引きこもり生活を送れているわけだが、さすがに遺産だけでこの先の長い人生を逃げ切ることは難しいだろう。やり直すにはまだ遅くない。それに、かつて交際していた咲江さんほど素晴らしい女性はなかなかいないとはいえ、別の女性とおつきあいをする道もある。縁遠い私がこういうことを言うのはいささかおかしいが、西本ほどの男なら、今からでも再び職に就き、すてきな女性と巡り合って社会に復帰することは可能なはずだ。私はそのことを伝えるために、今回、始めて彼の家を訪れたのだった。
西本と表札の掲げられた立派な家の門前に立ち、呼び鈴を押す。だが、全く応答はない。引きこもりなのだから居留守に決まっている。無礼を承知で扉まで足を運んで見てみると施錠はされていなかった。それを少しばかり開くとムワッと嫌な臭いが鼻を襲う。その正体は明らかにゴミや汚物が醸し出すそれだった。
家主の承諾を得ずにあがり込み、一室を開けてみるとそこはリビングだった。ゴミだらけの部屋のその中央には、よれよれのTシャツと短パンで髪をボサボサにした男がいる。室内に一歩足を踏み入れると、男は一瞬だけギロリとこちらをにらんで小声でつぶやいた。
「なんの用だ」
男━━西本の目は再びディスプレイに向けられ、そこに映し出されるサイトの文章の黙読を再開する。荒みきったその姿にはもう既にかつての快活な面影はなく、ただただ欲望のままに食い、自然のままに排せつし、目の前の四角い箱に映し出されるものにしか興味を持てないただの獣と化していた。
「なあ、西本。いつまでこんなことをしてるつもりだ?」
部屋の臭いに思わずはき気を催しながら、私は西本に問いかける。食べかすや生ゴミがこれでもかと散乱している部屋の中に、これまた大量のペットボトルが雑草のように部屋のそこかしこに生い茂っている。その中には濁りきった茶色い液体がなみなみとたたえられていた。さらに部屋の最奥には、大量に積み重なった大きめの半透明の容器が存在していた。その中には茶色い物体がぎっしりと詰められているのが遠目に見てもわかる。
清掃業をしている私にとって、その液体と物体の正体を察するのは簡単すぎる作業だった。ネットに依存してしまった者が往々にしてはまり込む落とし穴の一つ。トイレに行く時間すら惜しむようになり、その場で排せつをしてしまうという所業。その結果に違いない。
だが……。
西本は私を無視してディスプレイにかじりついている。私はむせ返る悪臭の中、部屋の入口で遠目に彼の背中を見つめながら、ある違和を感じていた。
西本が食い入るように見ている画面。それは何の変哲もない、どこにでもあるようなネット上の動画だった。普通、トイレに行くことすらも惜しむような依存者はネットでのゲームに興じる場合が多いのではないだろうか。
普通のサイトや動画は規約に違反でもしていない限り一朝一夕に消えることはない。限定公開などとあおってくるサイトもあるかもしれないが、それを見るにしたってトイレに行く時間くらいはどうにか捻出できるだろう。一方で、ネット上のオンラインゲームの場合は他者と行動をともにしたり、時間限定のクエストも多いと聞いている。それら全てに参加し、効率よく報酬を得てゲーム内での地位を高めなければいけないとなると、どんなときでも常にログインしてプレイしなければならなくなってしまう。それこそ排せつの時間すらも惜しんで。
私がそんなことを考えているうちに、西本は動画を見終えたのか、それを閉じて適当なリンクを踏み、別のサイトの動画を見始めた。
そんな西本を眺めながら私はさらに考える。西本は本当にネットを見ているだけだ。ということは、間違いなくトイレに行く余裕はあるはず。それどころか服を着替えたり、部屋の掃除だってやろうと思えばできやしないだろうか。
私が来たからゲームをやめてネットを見ているというのは理由にならない。それこそ普段からログインしていなければならないのがゲームなのだから、来客ぐらいでログアウトなどしていられない。仮にそれがアダルトなゲームだったとしても、私たちは男性同士であり、付き合いも比較的長い。こういう場合、性的な趣味をさらしてしまうという恥辱をかなぐり捨ててでもゲームにまい進するだろう。
こう考えてみると、実は西本はネットに依存するふりをし、引きこもりを演じているだけなのではないだろうか。
だが、まだ二つほど可能性が残されている。一つはネットには依存していないけれども、本当に引きこもりになっている可能性。つまり、何らかの精神疾患により外出できず、日常生活もままならなくなってしまっているという可能性。その場合、早急に医師の診断にかかるべきだが、本人が果たしてうんと言うだろうか。もう一つ、特に何らかの疾患ではない、つまり西本が正気だという可能性だが、それなら、引きこもる動機がなければならないはずだ。遺産で得た正当な金なのだから、何もこんな苦行のような引きこもり生活をする必要はない。胸を張ってしばらく引きこもればいいし、また社会に出たくなったら出ればいいだけだ。ここまで人を捨てた生活をする理由は何もない。
どちらだろうか、考え込んだその瞬間、この疑問を瞬時に氷解させるような事態が私の鼻を襲った。
生ゴミと汚物の強烈な臭いにかすかに混ざる一筋の全く別の臭い。清掃業の私ですらあまり嗅いだことのない、胃がムカつくような肉の腐るあの感じ。
西本はこの『肉』の腐臭を隠すために、食べ散らかし、排せつ物を起きまくったんだ。それだけじゃない。いざ、この『肉』が露見した際、罪を少しでも減じるために、日夜ネットに依存して狂人を演じている……?
この家の中に3体。恐らく遺産目当てで手にかけた西本の父母と、それを知ってしまった咲江さんだろう。彼らが悪臭を発しながら腐りかけになって、どこかにいる。そんな画が、脳裏に浮かんだ。