空墓所から
無事に打ち合わせを終えたその日の夜。ホテルへと帰る道で、雪衣は突然、私にポツリとささやいた。
「今夜、私を抱いてくれませんか」
私は思わず耳を疑った。この手の話はご法度だと思っていた彼女が、なぜいきなりそんなことを言い出したのだろうか。いぶかしげに彼女の顔を見返すが、彼女の顔は相変わらず透き通るように白くて、そこには一片の赤みも差してはいなかった。
その夜、私は半ば命令に従うかのように雪衣とベッドをともにした。
過剰なほど性に潔癖な彼女の思いがけない申し出に、心の中に激しい動揺と恐れの感情を私は抱いていた。だが、それを己の欲望と彼女の色香とで振り払い続ける。唇を触れ合わせ、衣服をはだけさせ、彼女の白い肌に触れる。そしていざ、という段になる。
突然、彼女はこの世の終幕のような絶叫とともに、私の体を蹴り飛ばした。
「だめ。だめ。どうしてもできない」
雪衣は、うわ言で何かをずっと言い続けていた。
「性が、セックスが憎い」
「なぜ私は愛し合えない」
「誰かが性を楽しむのが許せない」
かろうじて、こういった言葉が聞き取れたのは覚えている。
あぜんとしていると、彼女は不意にドアを開き、駆け出していく。私は慌てて衣服を身に着け、彼女の着ていたものを抱えて後を追った。
行方はすぐに知れた。雪衣はホテルからやや離れた小川のほとりにいた。
下着姿の彼女は悪鬼のような形相で、羅刹のごとく暴れ狂っていた。その周囲を小川に生息しているホタルがひらひらと舞い、その光の明滅が彼女を照らしあげる。
近づくと、チャキン、チャキンと金属音がした。音の源を探すと、雪衣の手元から聞こえてくる。どうやら彼女は両手にハサミを握り、光で異性と交信しながら舞い飛ぶホタルを切り刻みながら、この世で生物たちが連綿と行ってきた性の営みを否定する呪わしきステップを踏んでいた。
「憎い! 憎い! 交尾のできる、子を成せるおまえらが!」
寸断されたホタルは、命と光を失い河原にそのしかばねをさらしていく。その残酷過ぎる景色は、精神に異常をきたした雪衣の美しさとまだ生きのびているホタルの光の明滅のせいだろうか、なぜか触れてはならないような神秘性と威厳を感じた。
その直後、雪衣は私に気付くと突如としてあらぬ方向へと駆け出していく。それが、私が目にした彼女の最後の姿だった。
後日、雪衣の家族から退職届と、雪衣が精神的な性的不能者であったという旨の手紙が会社に届いた、と上司から話があった。