空墓所から
62.日付が変わる5分前
明日が憂うつで仕方がない。
ことの起こりは今日の定時の時間だった。退社が許される時間になった俺は身支度を手早く済ませて、そそくさと会社を出ていこうとしていた。役務という拘束から解放されて自由を得られる瞬間。家に帰って何をしようか、それともどこかへ寄ってから帰ろうか、何をしたっていいんだという気持ちに胸が膨らむ。そんな一日の中でも数少ない幸福な時間の中で、俺はカバンを取り出すためにデスクの最下段の引き出しを開けた。
引き出しが開いた瞬間、ひらりと一枚の紙が横たわっていたカバンの上に舞い落ちる。カバンを取り出すために引き出しを開いた俺の目は、当然その紙にくぎ付けとなった。
それは一枚の書類。恐らく一つ上の引き出しから追い出されるような形で最下段にずり落ちてきてしまったのだろう。その際についたと思われる折り目という傷を受けながら、その書類は必死にカバンの上で何かを主張しているかのように見えた。
この書類に見覚えがある。少しばかり前、記入をしておくよう上司から頼まれたものだ。それを二つ返事で引き受けた俺は、手が空いたときに対応すればいいやとばかりに即座に引き出しに突っ込んだのだった。
俺はそのときのことを思い出して考え込む。確かそろそろ提出期限が近いはず。いいときに出てきてくれたなと自分のずぼらさを棚に上げつつ、書類に記載されている期限を確認した。
やっと見つけた期限の欄には、6月8日の定時、という旨がしっかりと印刷されている。
その数字が目に入った瞬間、サーッと顔から血の気が引いていくのがわかった。6月8日、今日だ。先ほどまでの幸福感はすっかりどこかへと追いやられ、頼んできた上司の怖い表情で頭の中はいっぱいになる。
でも、考えてみるともう取り返しがつかない。うちの会社は残業や早出をする際は届出書を出す必要があるし、家に書類を持ち帰るのもセキュリティに問題があるだろう。また、ざっと眺める限り、この書類は取引先や関係会社から情報を集めて書く必要がある。すなわち、今から俺一人で頑張ればどうにかなるものでもないということ。さらに間の悪いことに、上司はもう既に帰ってしまっている。ということは、この状況を相談すらできない状況なのだ。
次の瞬間、同僚がオフィスの扉の前で、カギをかけるから早く出ろ、という旨を俺に伝えた。思わずそれに促されるまま、俺は書類を引き出しに入れ直してオフィスを出たのだった。
こうして今、家にいる。
周囲には酒の空き缶が林に並ぶ木のように立ち並び、乾き物やスナック菓子の袋がそれに彩りを添えている。ディスプレイでは芸能人がロケをしている番組が映し出されているが、ちっとも面白くない。苛立つように画面を変えるが、ニュースもスポーツもドラマも教養もちっとも頭に入ってこない。恐らくこれらはつまらなく見えるだけで、実際は見ている俺のほうが受け入れられる余裕がないだけなのだろう。
ディスプレイの代わりとばかりにスマホにも手が伸びてしまうが、こちらも面白いわけがない。楽しそうな若者たちや優雅なセレブたちの姿をSNSで見ていると、なんで一枚の紙を記入していないだけでこんなに苦悩しなければならないんだ、俺と彼ら彼女らとの間に何の違いがあるというんだ、という怒りの気持ちが湧いてくる。
頭の中に考えたくもないことがこびりついているのに、ちっとも振り払えやしないという面白くもなんともない時間。あの書類を見つけた瞬間から、俺はそんな時間を過ごすことを余儀なくされている。
酒じゃあそれは紛れない。ネットコンテンツの類も気晴らしにならない。チーズたらを束でつかんで一気に口内に放り込むが、どうやら満腹感も太刀打ちできそうにない。ただただジリジリと、やがて来る『明日』におびえるだけ。
もう11時を回った。あと1時間で日付が変わる。
チーズたらの塩気で乾いたのどをビールで潤し、空き缶の林がまた広がる。だが、何をしようが時間は止まらない。『今』は刻々と進み続け、やがて0時を指して『明日』となり、日が昇って出社時間となり、上司と顔を合わせる瞬間がやってくるのだろう。
「いっそのこと、『明日』と『今』の間に挟まれて、死ねないもんかな」
思わずそうつぶやいた俺の脳内に、『明日』という巨大な壁が目の前に立ちふさがる。通路の行き止まりのようにどこにも逃げ道がない中で、背後からゆっくりと『今』という名の別の壁が背中を押してくる。
その『明日』と『今』という壁がゆっくりと接するとき、『明日』を望まない、『明日』に行きたくない俺だけが壁の向こうへと行けずに押しつぶされる。手足がつぶれ、ろっ骨が砕け、頭部が圧迫され、とろりと脳髄があふれ出す。
明日、会社に行かなくていいのならそんな死に方もありかもしれない。そんなことを妄想しながら、悪酔いした頭と、膨れた腹と、相変わらず面白いとは思えないコンテンツたちに囲まれて、俺は日付が変わる5分前を迎えていた。