空墓所から
57.兄嫁の秘密
うちの兄はパン屋をしている。
まったく関係のない経済学部なんてところを出ているのに、ある日、いきなり店舗を借りてパン屋を開業したのだ。普通なら、そんな思いつきで始めた店はうまく行かないのが道理だろう。だが、地元ということもあって小中高の友人たちが駆けつける、近所のおばちゃんもやってくる、あそこのせがれがパン屋を始めたか、と堅物なおじさんやご老人がたも顔を出す。すると、お、こりゃ味のほうも悪かないぞということで、あっという間に人気に火がついた。
そんなトントン拍子に見事乗っかって、今や兄は押しも押されもせぬ地方の名店の主という立場を得たわけだ。
そんな兄は、先年結婚した奥さんと実家である我が家に暮らしている。兄の稼ぎなら家を建てるくらい造作もないのだが、足が悪い上に、数年前に父を亡くして元気のない母の世話も兼ねて実家に住んでいる、というわけだ。
すなわち、わが家には弱りきった母、パン屋の兄、その妻、そしてどうも母からあまり頼りにされていない次男の俺。この4人が住んでいるということになる。
まあ、この面々だけ見ると何やらきな臭い感じがするかもしれない。嫁と義母との仲たがいはよく聞く話だし、長男は下手に金だけは持っている、さらに部屋にこもってアニメ三昧、まだ若い兄嫁を女として見てそうな弟。事件が起こりそうな臭いがプンプンする状況だ。
だが、みなさんの期待を裏切って申し訳ないことに、俺たちはわりとうまくやっている。母は兄夫婦が来て本当に楽になったといつも感謝の言葉を口にしているし、実際に兄嫁ともうまくやっている。兄嫁さんのほうも仕事のすき間時間でうまく立ち回り、「いい気分転換にもなるので助かっています」と俺にもよく話してくれる。兄もお金に任せて母を施設に入れたりなどはせず、パン屋の仕事の合間に車で送り迎えなどをこなしている。
最後に残った弟のおまえは怪しいって? これでもちゃんとテレワークで仕事をしていて、お金はきちんと入れている。それに、兄夫婦は外で働いているし母も足が悪いので、家の掃除や食事など家事全般はほぼ俺が一手に引き受けているという状況だ。まあ、アニメが大好きなことは事実だが。でも、誓って兄嫁を変な目で見たことはない。これだけは本当に信じてほしい。
さて、前置きが長くなったが、実は先日、ひょんなところから兄嫁の秘密を知ってしまったのだ。これだけ聞くと何やら妖しい感じだが、まあ、取りあえずは聞いてほしい。
俺がテレワークで仕事をしていることは先ほど話したとおりだ。要するに、家でパソコンに向かって仕事をしているわけだが、その際、俺は一つだけこだわっていることがある。
作業中、ケーブルテレビをつけておくのだ。
会社によってはテレワーク中の音楽やラジオなどは禁止されているようだが、うちはそれが許されている。それに、俺は適度な雑音があったほうが作業に集中できるタイプだ。だから、別のディスプレイに映し出される画像を横目に仕事をするというのが日課になっているのだ。
その日も、俺はケーブルテレビをつけながら作業に勤しんでいた。すると、何やら聞き覚えのある声がする。ん? と思い横目でディスプレイを確認すると、そこにまさかの兄嫁が映っていた。
「え? え?」
思わず二度見してしまう。その番組は俺たちの住む県の評判の良いお店を紹介するグルメ番組のようだった。兄嫁らしき女性はそのレポーターとして、訪れたお店の美味しそうな冷やし担々麺を頬張り、幸せそうな顔で食レポをしている。
「これ、義姉さんだよな……」
確か、兄嫁は小さい運送会社で経理の仕事をしていたはず。顔も声もよく似ているが、これは他人の空似というやつだろうか。
俺はそのレポーターの名前をメモり、ネットで検索して所属事務所のサイトにアクセスする。そしてタレント一覧から名前を見つけてクリックした。
「あー、そういうことか」
その女性タレントの名は兄嫁のとは似ても似つかぬものだったので、世界に3人いるそっくりさんの1人だろうと思いながら彼女のプロフィールを見たのだが、どうやら真実は違っていたようだ。
彼女は名前こそ違えど、出身地、生年月日、血液型が兄嫁と一緒だった。
もうこれは間違いなく本人だろう。だが、そうなるとなぜこの立場を隠しているのかという疑問が出てくる。
別に、兄も母もついでに俺だって、芸能の仕事に偏見は持っていない。もちろん、肌を過剰に露出するような仕事とかなら別だが、ケーブルテレビとはいえグルメタレントをしているのならむしろ応援するだろう。
もしかして、俺だけ知らされていなかった? いや、それはない。母が知っていたなら、それこそ毎週のように番組を見て、その上で録画もするはず。テレビの全盛期を生きた人だし、義理の娘がテレビに出ているなんて知ったら、きっと鼻高々で周りにも自慢するはずだ。
ということは、母はもちろん、兄にすら言っていない可能性が高い。もしかして、言えないような秘密を抱えながら仕事をしているのだろうか……。
考えに考え抜いた結果、本人に真正面から聞いてみることにした。
その日の夜、帰ってきた兄嫁に夕食を振る舞う。兄は母の送り迎えで遅くなるので、まだしばらくは二人きりのはず。
仕事の疲れか、気だるくサバ塩をつつく兄嫁。俺は緊張しつつ言葉を投げかけた。
「ねぇ。『うまいたま、さいたま』って番組、知ってる?」
俺が言い終えた後、兄嫁は少しばかり間を開けてからふふっと笑った。
「あー。バレちゃったか」
そう言いながらサバ塩の身をほぐしてご飯になじませつつ言葉を継ぐ。
「宏さんさぁ。私に何の断りもなく、勝手にパン屋、始めちゃったんだよね」
そう言うと、なじんだサバ塩ご飯を箸で口に運ぶ。ゆっくりとそれを味わい、飲み込んでから再び兄嫁は話し出す。
「そりゃ、結婚の前だったけどさ。一言、あっても良くない?」
まあ、すでに交際はしてたし、結婚もほぼ既定路線だったしな。俺は深くうなづいた。
「だから、その仕返し。宏さんが自分の夢を一人で勝手に追っかけたんだから、私も小さい頃からなりたかった芸能人っていう自分の夢を追っかけてやろうって思っちゃったんだよね。そんな感じでダメもとでオーディションに行ったら、なんか受かっちゃった」
「……まだ、兄さんには話してないんすよね」
「うん。でもね、話す手はずはもう整えてある。だから、申し訳ないけどその時まで内緒にしててほしい。あ、あと、勝くんもできれば番組、見ていてね」
そう言うと、サバ塩の骨だけを残し、ご飯茶わんも付け合せのおひたしもすっかり空にして、兄嫁は自室へと戻っていった。