空墓所から
だが、まだ戦いは終わっていない。ここまでのやり取りで相手は俺を積極的に話しかけてくる客だと認識しているはずだ。すなわち、こちらが話題をふるのを待っている。ということは話の主導権はまだ俺が握っているし、まだこちらから会話を仕掛けることができるはずだ。俺はこれがおそらく最後になると思いながら、再び美容師に言葉のパンチを浴びせかけた。
「今期の〇〇ってアニメが大好きなんですよ。ストーリーももちろん素晴らしいんですけど、作画も本当にていねいで。背景とかも思わずほれぼれとしてしまうんです。だから、1話につき3回ぐらい見直しているんですよね」
もうなりふり構っていられない。隣の客や他のスタッフがどう思おうが関係ない。フットサルをやっているやつはまず深夜アニメなんか見ちゃいない。これでアニメの話を気持ちよくぶちまけられなかったら、もうこの世の理がおかしいとしか思えない。
そんな不退転の覚悟でふった話題だったが、それでも勝利の女神は俺にほほえまなかった。
「ああ、〇〇ですよね。私、見ていないんですけど、実は高校時代のクラスメイトが声を当てているんです。確かメガネの図書委員の役って言ってました」
メガネの図書委員。脇役ではあるが確かにキャラクターは存在する。主人公たちに問題が起きたとき、ヒントや示唆をそれとなく与える役割だ。
「彼女、高校の時から声優を目指していて、そのアニメで初めて名前付きの役をもらったって連絡してきたくらい喜んでいたんです。でも、肝心のキャラの名前を忘れてしまったんで、次に会ったときに謝らないといけませんね。あはは」
……なんだよ。声優の友人までいるのかよ。俺の高校の頃の同級生、みんな何してんだろ。というか、そもそもあいつらと連絡先なんか交換しなかったし、したくもなかったしなあ。
美容師への敗北感と脳裏に浮かぶ高校時代の思い出したくないできごとで、目の前がぼんやりとにじんでくる。そのとき、ちょうどカットの確認が終了し、美容師が洗髪の用意をして俺の顔にフェイスガーゼをかぶせた。
「では、洗髪のほうをしていきますねー」
このガーゼは、戦いに勝利した美容師なりの武士の情けというやつなのだろう。今はその情けにすがることにして、ガーゼの下で敗北の涙を流す。
いつか、この戦いに勝利してみせるという決意と、次の対戦のために、この髪が一刻も早く伸びることを願いながら。